映画『珈琲時光』:都市の生態系
hitomojiです。
mirimachiさんの記事から都市をクローズアップした作品はないかと考えている。(こちらも)
「街が生きているわぁ!」と感じた作品で言うと映画『珈琲時光』。この映画は、東京を舞台に、街に語らせるといっても過言ではないほどの長回しの電車内のシーン、電車が走るシーン、各駅を収めたシーンが印象的。登場人物は主人公:井上陽子(一青窈)と、陽子と仲の良い行きつけの古書店員:肇(浅野忠信)、陽子の両親のみ。会話中で「陽子を妊娠させた台湾の彼」と「陽子が恋焦がれる江文也(作曲家)」が出るが、どちらも登場しない。陽子が、実家に帰って妊娠の話題に触れることのできない両親と気だるい時間を過ごし、肇と江文也の聖地巡礼をおこなうだけの映画だ。
この映画にとっては、「子の父親はどんな奴か、両親と陽子はどうするのか」とか「江文也が行きつけだった銀座の店は今もあるのか」とかいう結論めいたことはどうでもいい。その代わりに、陽子が東京近辺を移動する際に必ず行き先が明示され、そこまでの乗換ルートが画で説明され、その間の街並みをじっと見つめて、行きかう電車と陽子の間の抜けた顔をただ眺めさせられるだけである。街を楽しむ以外に取り柄のない映画だ。実家のある群馬県高崎では、ローカルの小さな駅で近所の人が「あら、あの子井上さんとこのお嬢さんじゃない?」みたいな会話をしているらしき雰囲気があり、実家では何か言いたげな親子の微妙な距離。神保町ではみんな「自分の趣味以外どうでもいい」かのような冷たさと共通意識みたいなものがあり、銀座ではなんでもない雑居ビルの一角にある喫茶店のマスターがこの辺の古い歴史を知っている風である。銀座では歴史をひもとこうとする陽子たちにめんどくさそうな非干渉の態度も垣間見える。古い街に新しい街、大きい街、小さい街。
登場人物たちの中の物語性(結論や終着点)を描かない代わりに、街と街、街の今と昔、誰かにとっての街を緩やかにつないでみる。たびたび登場する象徴的なシーンでは、線路と線路がカーブを描きながらすれ違う。画像の2線路の下にさらにもう一本の線路があって、調べたところ有楽町周辺らしい。)
分かりやすい物語にどっぷりつかってしまっていると、何かしらの結論を欲しいというような気になるのだが、それがあるからこそ車窓をじっくりと見まわして、街が生きているかのような、何か必然性や関連性を持っているかのような読みが成立するのだと改めて思う。東京の人と関西の人ではまた違って見えるだろう。関西を題にした映画があれば見てみたいが、「どや、おもろいやろ、みんな関西が好っきゃろ」みたいな内輪ノリとテンプレ量産で肩を落としたくない。
『珈琲時光』の東京に対抗して、阪急宝塚線で中津(by kamisan)~十三~岡町(by kamisan)~宝塚とかはローカルもあり繁華街もあり高級住宅地もありで面白そうな気がする。
予告編
※音が悪いです
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映画『珈琲時光』
監督 : 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)
脚本 : 侯孝賢、朱天文(チュー・ティエンウェン)
撮影 : 李屏賓(リー・ピンビン)
出演者:一青窈
浅野忠信
余貴美子
小林稔侍
萩原聖
主題歌:「一思案」(作詞:一青窈 作曲:井上陽水)
配給:松竹 公開:2004年9月11日
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でもコレ、もう10年前の映画だよ。今、同じように撮っても、また違う東京の表情があるような気がします。一青窈っていま何してんの?