物語論・都市論・集合論@オンノジ/鉄コン筋クリート

 

Aさんがいて、Bさんがいて、Cさんがいて・・・Zさんがいる。A〜Zの営みが社会を形成し、これの物的な構造体として都市が存在する。集合論でいえば、A〜Zは要素で、都市はそれらの要素の集合である。

物語は、集合(都市や環境世界)の要素であるキャラクターの関係性や組み合わせの変化の履歴として語られる。だから、通常の物語において、都市や環境世界それ自体が、物語のなかに積極的に顔を出すことはない。AさんとGさんが口論している際、Xさんが仲裁にはいることはあっても、いきなり都市@が「まあまあ」などといって割り込んでくることはない。いうまでもないことだ。

しかし、街を語る、世界を主題化する物語は、何らかの形でこの常識を覆す必要がある。先に見たように、街や世界それ自体を直接語ることは、通常の物語の方法論では無理である。したがって、この代替アプローチは必然的に実験的なものとなるだろう。

 

例えば、要素(登場人物)をAだけにした場合、Aは事実上の環境世界そのものでもある。そこでは、もはや集合論的発想の妥当性が失われ、要素/集合の前提条件が脅かされることになる。この破綻を経由して、物語内部において世界それ自体を対象化することが許容される。

またAとBのみの場合は、A-B間の関係性がそのまま両者を取り囲む環境世界となる。物語内で、A-B間の関係性について言及することが、同時に環境世界それ自体の成り行きを左右することになるだろう。良し悪しは別として、いわゆる「セカイ系」とはこれに相当する。以上のように、登場人物を極限までそぎ落とすことにより、それまで背景でしかなかった都市や環境世界が主題化できるようになる。

施川ユウキ『オンノジ』は、このアプローチで街や世界を扱った。私以外だれもいない無人街という設定は、これまでに使い古されたアイデアだろう。だがこの作品は、連載中に3.11をまたいでおり、前半のあっけらかんとした4コマ漫画は、後半シリアスな内容となっていく。

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「死の街」といっただけで大臣が更迭されてしまう異常な日常のなかで描かれた、私とフラミンゴと世界の物語。原発事故以後の日本においては、本作品は、単なるSFコメディを超えて読まれるべきだ。絶望を前にした希求の物語として。

もう一つのアプローチは「神」を登場させる方法だ。ここで「神」とは全知全能であるとか、文字通り神々しく美形である・・・などといった、神の肩書きやキャラ設定が問題なのではない。ここでの関心は、世界それ自体の擬人化である神が、自身が作り出した世界の中にいるという、要素と集合のねじれ関係を導入する方法だ。すなわち、それは「この文は嘘である」「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人がいった」といった集合論のパラドクスを、物語に適用することに他ならない。

「お前はこの街そのものだよ、クロ・・・」。松本大洋『鉄コン筋クリート』はこれの典型例である。クロとシロの二人の神(二人で一人の神ともいえる)が、侵入者から街を守る話だが、皮肉にも真の敵はよそ者ではなく、実は街の均衡は神(=世界それ自体)である自身の精神バランスに依存していたのだった。

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シロが公衆電話で話す相手は誰だろうか。世界の外側との交信をしていることを匂わしているが、それは他でもない自分のことであり、あの会話はモノローグなのだ。

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ただし、このアプローチはある種の副作用を伴う。世界と私の自己言及構造は結局のところ自意識の問題へと回収される。したがって、脇役にどのような登場人物達を用意したとしても、彼らの存在感は薄らいでしまう。事実『鉄コン筋クリート』は、濃いキャラが伏線として設定されていたものの、消化不良なまま物語がラストを迎えてしまった。

また、この作品の着想は、多かれ少なかれ大友克洋『AKIRA』に影響を受けている。冒頭からネオ東京のアップから始まる『AKIRA』は、街並と金田のバイクのための物語であって、そもそも人物なんか描く気がない。そういう意味で『AKIRA』は、要素なし∅空集合の物語といえるだろう。

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