『トゥルーマン・ショー』の街並み。
この映画のあらすじを2行で説明すると、なんか街の雰囲気が変だナーって思っていたら、 実は全部映画のセットで、自分はその物語の主人公でした。…っていう超ベタな話。下はセカイの果てです。
その古典的なベタさゆえか、評論家やら大学のセンセーによく引用されているけれども、映画作品としてはB級コメディの域をでていませんwはっきりいって、クソです。
- そもそも生理的にジム・キャリーが無理。(って人は多いと思う)
- セットが中途半端で、それがネタバレになっている。
- もしそれが意図的なものなら、監督のセンスを疑う。
- 現代社会批判というよりマンネリ化したハリウッド批判。
- でもこの映画自身がヘタクソだからシニカルな笑いにならない。
- フィリップ・K・ディックのパクリ、しかも劣化している。
などなど、挙げればきりがない。ところで、この中途半端な街のセットが、JR奈良駅周辺の風景と似ているなあと思う。別に奈良だけでなく、地方のJRの駅って、なんでB級映画のセットみたいなんだろう。
どーん、となんかでっかいハコモノが数個あって、あとはテキトーなプレハブが群れるというチープさ。でも急行はとまるぞ的地方の国鉄スラムが全国にまん延している。まあ、田舎だとビルと明かりがあるだけマシなのだけど。
いやまてよ、このB級映画のセット的風景は、なにも駅前のそれだけじゃなくて、ニュータウンにもあてはまるんじゃないか。見えないところに金かけないところとかw
ここで「見えないところ」は、空間上の視野だけでなく、より抽象的なパースペクティブをも意味している。例えば「時間」がこれにあたる。セットはクランクアップ後に取り壊せばよい。その程度の未来予想で街っぽいものを組めばよいのだ。
他方、現実の都市は、より長期的なプランを要するはずだ。しかし、そうであるにもかかわらず、現実の都市計画の理念は、ボロくなったら新しいニュータウンを作ればいーじゃん的ノリだったりする。現実の街もまたセットなのだ。まあ、そんな制作費とロケーションがあるなら、焼き畑ニュータウンもありかもしれないけどさ。もう、日本にそんな金ないんじゃないの?いや、もはやこれを維持する余裕すら…
その結果、日本の諸ニュータウンで何が起こっているのか。道も道路も、そして住民も同時に歳をとっていくこと。街のすべてがシンクロした過程には新陳代謝が存在しない。しかるに、街は成熟ではなく老朽化だけが進行していく。
さらに未来、高齢者たちが車を運転できなくなったその時、彼らは難民と化し、かつての実験都市は姥捨て山となるのだ。もうこれって、アホな監督のセットのなかに囲われている??っていうのはSFではない。確実に訪れる未来だ。怖い。
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そんで、余談。作家フィリップ・K・ディックは、映画『ブレードランナー』の原作者で有名だけど、実は『トゥルーマンショー』の元ネタである『時は乱れて』(TIME OUT OF JOINT)の著者でもある。1959年に書かれた『時が乱れて』の方がこのクソ映画の何倍も面白いことを付言しておく。ネタバレせずにちょっと説明しておくと、
- 主人公が狂っているのか世界が狂っているのか結末までわからない
- ノスタルジアという現象を幼児退行と結びつけた
- さらに、これが内的な心理状態だけでなく都市空間まで押し広げた
- 私の解釈だが、主人公を取り巻くキャスト達も退行をおこしている
- 個人レベルでない、社会レベルの幼児退行(ソーシャル・レグレッション)を描いている
今、日本では、やれ昭和だ80年代ブームだといってるけれど、本当は3年前へのノスタルジアではないか。嗚呼、3.11以前の平和ボケ日本のなつかしさよ。「昭和」や「80s’」はこれをカモフラージュするための記号でしかない。え、どうしてこれを隠蔽する必要があるのかって?
ノスタルジア・モードが、お気楽なファッションとしての消費コードなどではなく、実は単に現実を直視できないことからくる「社会的幼児退行」であることを否認したいからだろう。そういうムードが街を覆い尽くしている。
−退行、ノスタルジアという名の病が。
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