『下妻物語』の街並み。
「この街の人間は完全に狂っています」
首都圏の辺境、下妻。ここの住民がまとう衣服は、ジャスコというユニ・フォームである。
ジャスコライゼーション=コスパ至上資本主義が地方を飲み込んでいく。ジャスコライゼーションへの退落は、画一的な共産主義を帰結する。また、それは一元的欲望に反射的に反応する理論(新古典派経済学)の具現化でもある。
この作品は、単にハイファッションという大上段から、「ファスト風土化」を小馬鹿にしているのではない。高級ブランド市場も風刺の対象になっている。尼崎商店街で「フランス製のヴェルサーチ」に群がるおばちゃん達は、愚かな消費者なのだろうか。そうかもしれないが、しかし、それは「本物を見極められない」という類の愚かさとは別次元のものだ。
記号の記号による記号のための消費社会。ゼロ・カロリーのコークを飲むとき、それは「コーク」という記号そのものを飲んでいる。耐えられない軽さ、否それすらない空虚な浮遊感。コスパ至上資本主義とは別に、机上のポストモダン消費社会論の実体化がここにある。そこでは「本物/偽物」の区分すら無効となる。これに関して、小説版『下妻物語』のいちごの台詞が象徴的だ。
「うん、お前のいってることは解るよ。これが本物のベルサーチと全く無縁の商品だってことは、ちゃんと解ってるよ。でもさ、思わないか。たとえ偽物でもさ、お前のオヤジはベルサーチの商品を作りたいと思って、そのロゴとマークを使ったわけだろ。それならそれはベルサーチの商品として認めていいんじゃないか。そりゃ、素材とかさ、そんなものは本物より安く売る為に悪いものを使っているかもしれないけどさ、肝心なのはそういうところにないと、あたいは何となく思うんだ。上手くいえないけどさ、要は、心意気よ。心意気さえベルサーチならさ、偽物も本物も変わりはないよ」(pp. 84-85)
ジャスコライズされた下妻市民とヴェルサーチの「心意気」に群がる尼崎市民との距離はそれほど遠くはない。いずれにせよ、彼らはレディメイドの息苦しい消費コードのなかであがいている。「選択」を与えられるために、よだれを垂らし口をあけているのも同然だ。そこで、私たちはタイラー・ダーデンの声を聞くことになる。
「この街の人間は完全に狂っています」
だから? 『ファイト・クラブ』の主人公のように、空虚な記号でまみれたリビングを焼き払う? あるいは・・・。映画『下妻物語』は、あくまでも東京郊外の風刺だった。ゼロ年代半ばまでは、まだ自虐的にこれを嗤うことができたのだ。しかしイチゼロの今、この病は中心市街地で起こり始めている。
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2014.2.04改訂