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『千と千尋の神隠し』の街並み。

 

物語の舞台が遊郭だったことに関して、宮﨑駿は言った。日本の盛り場は猥雑だからだ、と。私たち日本人がこの作品を見るには、欧米人の眼差しが必要だ。

この作品が描いた、あのグロテスクなメルヘン世界は、欧米人にとって現実の日本そのものである。冒頭に出てくるテーマパークの廃虚は、現実の日本のタウンスケープの風刺であり、そこに監督の日本の景観に対する批判が込められている。

昼間、死んだようにだれもいない街、そして夜になると猥雑に賑わいはじめる界隈、統一感を欠いた様々な建築意匠の混在、そして、そこには子共の居場所がない。さらに、この街を主人公の家族が歩くとき、両親は主人公と全く目を合わさないのだ。これらは日本が実際に抱えている「病」そのものだ。

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あと余談だが、周知の通り、この作品の真の主人公はカオナシである。

カオナシは80年代バブルの象徴だったが、公開当時、特に80年代を知らない者には、このことはあまり理解されなかったと思う。それが2008年のリーマンショックを経て、カオナシ=バブルという認識は広い世代層にわたって共有されることになった。

さらに、2011年3.11経てこの作品を観て、原発とそれを支持していた私たちもまたカオナシだった、と思うに至る。

カオナシの手からわき出る金塊に象徴されるように、タガの外れた欲望とこれを加速させるマーケティングは等価交換や質量保存の法則を逸脱していく。

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しかし、そんな都合の良いものはあり得るはずも無く、肥大化した欲望は、結局その欲望自体に飲み込まれていく。原発(とその利権団体)のように。

廃炉や使用済み核燃料のコストを考慮に入れれば、プルトニウムはあふれ出る金塊などではなく、むしろ泥団子同然である。いや、泥団子どころではない。事故により日本の安全な食料や領土が失われたわけだから、プルトニウムは無限大の負の価値をもった、第二のアヘンだったわけだ。

しかし、私たちは目先の合理性でこれを良しとしてきた。いつの間にかカオナシに飲まれていたのだった。

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これと対照的な世界が銭場の住まいである。私は平川克美の「小商い」を連想した。ただし、このシーンはノスタルジア以上の意味を持っていると思う。単なる近代批判としての田舎賛美と解釈すべきではない。(確かに世間から距離をおいた孤独な老人の清貧にも見えなくもない。それはその場所には銭婆しかおらず、社会関係が存在しなかったからだ。)

銭場の後ろでカオナシ(バブル)とネズミ(ニート)が回す糸車は、より地に足のついたエネルギーや産業構造への転換を示唆している。それは決して後ろ向きではなく、「里山資本主義」や「ビットからアトムへ」という次世代の社会ステムや働き方を示唆するものである。

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この国の豊かさを未来に紡いでいくためには、糸車に象徴されるような、シンプルでリアリティのある知の体系へいまいちど立ち戻る必要がある。そろそろ、ビューティフル・ドリームの無限回帰から目を覚ましてもよいのではないだろうか?

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