『かぐや姫の物語』と生き苦しさ

 

Hitomojiです。

高畑勲監督、11月23日公開。『竹取物語』が原作のアニメーション映画『かぐや姫の物語』を見てきた。野山で竹を取って過ごしていた翁夫婦は、ある日突然竹から子を授かる。野山でのびのびと大切に育てられたかぐや姫だったが、翁が都へ連れて行き高貴な男性と結婚させようとする。反発したかぐやは男性に無理難題を押し付け、結局誰も難題をクリアできず、かぐやは月へ帰った。というお話。

「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピー。この意味が腑に落ちる瞬間が最後に劇的に訪れるのだけれど、仏教的な「生きることの苦しみ」が根本にあるような気がする。この世に生まれ、生きるということは、自分のエゴや他者のエゴから精神的に苦しみを与えられている状態だということ。仏教の中ではこの世であらゆる欲を持つことが、罪深いことで、断ち切ることで初めて楽になれるとされている。

では、この映画で描かれる「苦しみ」とはなんだろうか。※以下おおざっぱな口語訳

野山の人「あいつ変なのー、いじめようぜー」

都のセンセイ「高貴な女性だからこうあるべきよネ」

翁「都で高貴な人に娶ってもらえることが幸せに違いない」

都のエライ人「田舎者だから、はしたなくて野蛮だ」

都のエロイ人「女だから性的に消費されて当然だ」

田舎の人「都の者だから、田舎に来て見下してるんじゃないか」

田舎の人「かの部族は山を食いつくして去っていく」

かぐやが都に出ることで一気に社会的なものが降りかかる。それは「常識」や「世間」のような社会の中の価値指標を持たない、余所者のかぐや姫にとって、耐えがたいことだろう。高貴な者として、女として、振る舞いを他者から規定され、まなざしに晒される。まったく都会は怖くて疲れるところだ!田舎へ帰ろう!なんて言ってしまえばいいのだが、この映画ではそうはさせてくれない。

かぐやが戻りたいと切望した野山は、もはや彼女を受け入れない。都会の女になった彼女が、「悠々自適に野山を走り回る」田舎暮らし生活を送ることに対してのまなざしは厳しい。野山に暮らす人の中のコンプレックスなのだろうか、それともムラ社会に対する裏切りだからだろうか。田舎は決してしがらみから解放されて気ままに暮らせる地ではなくて、田舎には田舎の欲望やエゴがある。都会と地方との間の心理的な嫌悪があり、地方内部での部族間断絶がある。都会は嫌いだけど、出来るなら持てる者から奪いたい。

思い返すと、本当に現代の日本の厭なところを丸めて詰め込んだような作品だ。

こうした田舎で暮らすことのむずかしさ、受け入れられ難さ、あるいは都会の中で社会に順応することの難しさは『おおかみこどもの雨と雪』(2012年、細田守)を思い出す。細田は「社会と断絶があっても、なんとか居場所を見つけてやっていくっきゃないっしょ、それが生きるってことっしょ」みたいなハッピーな感じと、人間に対する絶対的な信頼があるのに対して、高畑は「もう無理、死にたい」という絶望的なところを終盤に持ってくる。不信感と業の塊で、これはそのまま現代の問題点を淡々と見つめた末に見つけられた人間像なのかもしれない。

彼女が「自分らしくありのままに生きたいのに」という心に対して、月の者も地球の者も許してはくれなかった。ただかぐや姫や周囲の人々は決して悪人ではなく、ごく普通の愛情や自立心を持った人々であるから、なんとも言えない苦しみが残る。生きることは苦しいのだと多くの場面で思い、それでもやっぱり素晴らしいことかもしれないと時折思わせる、不信感と信頼感の間で揺らいでいるような作品でした。

参考:

仏教根本講義「希望と欲望」

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi159.html

まなざし仏教塾「生苦とはエゴを背負って生まれる苦しみ」

http://manazasi-letter.sunnyday.jp/index.php?%A1%D6%A4%AA%C7%B0%CA%A9%A4%CE%B3%AB%A4%AF%C0%A4%B3%A6%A1%D7#cf82464a

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