非人考: 般若寺と北山十八間戸

 

その土地の歴史を知るということは、かつての栄華のかすかな残り香を嗅ぎ分けることだけではない。その当時の人たちが、積極的に遠ざけたもの、封じ込めようとしたものの痕跡に思いを巡らすこともまた歴史ではないだろうか。

今回、奈良きたまちの、般若寺、北山十八間戸、奈良少年刑務所などを見て、いろいろと思いついたことがあったので、以下に記しておこう。
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例えば、「非人」とよばれる被差別階級は日本史の教科書に記されるものの、なぜ彼らがそのような差別の対象になったのかは明確には語られていない。そもそも、非人には地理的にも時代的にも様々なバリエーションがあったと思われる。これに関して、北山十八間戸の存在をめぐる考察は、非人が権力サイドの一方的な都合で策定された身分ではないこと、そして当時の般若寺が現代的な意味での宗教施設というよりも、大学病院の隔離病棟に近かったという憶測に一定の確度を与えるだろう。

般若寺
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北山十八間戸は、鎌倉時代にハンセン病患者を収容した施設である。ここで注意しなくてはならないのは、中世(それ以前)に本当に民間人のために、このような施設をわざわざ建てたのだろうかという点である。市民階級ならば、この病に冒された時点で共同体外部へ徹底排除されたはずだ。だが、北山十八間戸の立地場所は、ケガレに取り込まれた民間人の収容施設としては市街地の拠点からそれほど遠くはない。一体、この北山十八間戸は誰のための施設だったのか。察するに、皇族や貴族、すくなくとも東大寺に莫大な寄付ができる権力者が、ハンセン病を煩ったとき、近場のここへ収容されたのではないだろうか。このとき、彼らは貴族階級から非人となり、街から隔離される。

北山十八間戸(江戸時代)
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奈良坂のピークにある北山十八間戸〜下界の東大寺・興福地界隈までの距離は徒歩で1時間以内の範囲である(鎌倉期の北山十八間戸は、般若寺の北東にあったと言われるが正確な位置は不明で、現存する北山十八間戸からは30分以内の範囲である)。だが、東大寺や興福寺のある都市部からは、この北山十八間戸は、まったく姿が見えない。ケガレは隠蔽される必要があるからだ。他方、隔離された元・貴族の非人は山手から街を見渡すことができる。こうして自分と社会との接点を辛うじて維持することが出来る。つまり、奈良坂のピークという立地は、隔離する側/される側の双方の都合が一致する絶妙なローケーションだったといえる。

私はハンセン病について詳しく知っているわけではない。しかし、ペストのようにパンデミックをおこし確実に死に至らしめる病ではないこと、むしろ感染力は弱く死には至ることが希なことは周知の事実だろう。果たして、ハンセン病患者差別の根深さの本質は、疫学ではなく心理学の領域に根ざしている。顔が溶けるという病。この一点がハンセン病が単なる疫学を逸脱した何かを孕んでしまう。ハンセン病は患者の顔を奪うが理性は奪わない。ただしこれを見る者の理性を揺さぶる。これは道徳律や倫理の次元ではなく、人間の認知フレームは常に顔を探すようにできていることと関係する。顔があるべき場所に顔がないと、これを見る者の認知構造は想像以上に錯乱する。

ある日。夕闇のなか、淀川の橋の狭い歩道を自転車で渡ろうとしたとき、向こう側からくる相手が自転車を降りて私を待っていてくれた。お互いが自転車に乗りながらすれ違うには幅が狭すぎるのだ。私はすれ違いざまに会釈をしたが、その人には顔がなかった。目も鼻も口もなかった。その人の性別が男性であること以外、年齢も表情も読み取れなかった。不意の出来事だったということもあるが、無表情ですらない表情を前にして私は動揺を隠せなかった。何度も言うが、それは障碍者への差別意識からではなく、顔認識に関する認知エラーに由来する。

これは想像の域をでないが、当時の元・貴族たちは、ハンセン病を克服しても、自主的にこの場に留まったのではないだろうか。むしろ、下界に戻ることこそ、プライドの高い貴族にとって修羅ではなかったか。彼らは、映画『オープン・ユア・アイズ』や『バニラ・スカイ』の主人公のように、山奥でかつての生活に夢をはせながら静かな余生を送ったのかもしれない。あるいは、前向きな者は、この隔離病棟の医療スタッフとして従事していたのかもしれない。少なくとも完治した者の免疫力は強く、彼らは新たな患者に対する優秀な看護スタッフになったはずだ。または、般若寺で現世の常識やモラルに囚われない、究極の知識を探求したのかもしれない(「般若」とは煩悩ではなく悟りを意味する)。

ちなみに『もののけ姫』において、錬金術に携わっていた包帯づくめの者たちも、ハンセン病患者だった。社会的にオーソライズできない技術、有用であるが禁忌に触れる知識は、彼らが請け負ってきたのである。そうだとすれば、非人を権力の中心から疎外しつつその管理下に治めるという地政学(事実、奈良坂の非人は興福寺の管理下にあったようだ)について合理的な説明がつく。権力サイドにとって、そのような知識・技術は存在してはならないが、実際には必要不可欠なものだったのだから。

いずれにせよ、東大寺・興福寺界隈と辺境の境界に、非人たちの社会が形成されていたのは確かだ。現代ではここに、奈良少年刑務所(罪が重い受刑者は少年院ではなく少年刑務所に送致される)があるが、800年後の歴史家は、「20世紀前後においても境界者の社会がここに形成されていた」と記すのだろうか。確かに、権力のそばに置きつつこれを隠す、という矛盾めいた存在様式において類似している。これは結果論だが、この場所性が、重罪を犯した少年のケガレを忌みながらも、未成年の可能性を閉ざしてはいけない心理を象徴しているといえなくもない。

奈良少年刑務所
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参考:
「もののけ姫」の関連テーマを考える

まほろば実見室「北山十八間戸」

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