都市の原風景@足摺り水族館/路地裏第一区。
街並みが単なる風景ではなく、この私に向かって迫ってくる、あのドキドキする感じ。怖くて、でもわくわくする空間体験。これこそ誰もが心の奥底で共有している、都市の原風景ではないだろうか。
自費出版本なのにジュンク堂千日前店で平積みされていたpanpanya『足摺り水族館』(立ち読みできない)を購読して、そんなことを考えた。子供の頃、独りで初めて踏み入れる見知らぬ街並み。それはまるで一つの生物のように、侵入者に対峙してくる。
本書の断章「完全商店街」にて、少女は母親からお使いを頼まれる。だが、メモの最後に記された、謎の商品はどこにも売っていない。読み方すらわからない謎の商品を求めて、少女は完全商店街とよばれる謎のマーケットに足を踏み入れるのだった。その時の描写は、少女はまるで生きた街並みと対話しているかのようだ。『足摺り水族館』、morimachiイチオシの作品です。1200円。
お化けが出てくる怖さ、未知の街で迷う怖さ。この二つの怖さは別物だ。前者の怖さはある対象について闘争か逃走することによって解決できる。後者のそれは、そもそも対象化できないことに由来する。だから、これと戦うことも逃げることもできない。さらに、これをもっと知りたいという誘惑にかられる。見たいような見たくないような、そんな怖さ。
唐突だが、映画「エイリアン」シリーズで例えると、『エイリアン2』がお化け屋敷的な怖さなら、初代『エイリアン』はお化け屋敷の中で迷子になる怖さだ。ちなみに『エイリアン3』はお化け屋敷の中でお化けと間違われる悲劇(喜劇?)である。4以降は、知らん。プレデター以前に、初代『エイリアン』の冒頭に出てきた「エイリアンを飼っていたエイリアン」が未だに気になってしかたがないのだよ、私は。このように物語世界が説明され尽くされないないところに初代の魅惑的な怖さがある。
よく見ると上の二つのエイリアン(の飼い主さん)、サイズ感が違うんですけど(^^;) それはさておき話を戻そう。誰もが子共の頃に体験したであろう、未知の街に飲まれるあの感じは、私たちの原風景として心に刻まれている。大人になっても、不意に路地裏を探検したり意味も無く途中下車したくなるのは、そういう心象イメージを再び体験したい欲求にかられるからだろう。このような観点で他作品を探すなら、ムライ『路地裏第一区』なども挙げられる。ただし、この作品は最後にいわゆる「お化け」出てきてしまうので、私見では先の『足摺り水族館』(特に「完全商店街」)の水準には達していないと思う。
「完全商店街」で少女は、探し求めていた謎の商品を手に入れることができる。異国のモノのようでもあり、過去のモノのようでもあり、未来のモノのようでもあり、そのどれでもないかもしれない謎の商品。これを家に持ち帰る。しかし、母もまた、その商品のことを知らなかったのだ。謎の商品は、謎ゆえにいつもの風景を解体し、ルーティン化した価値体系をゆさぶる。その一方において、その謎が明かされること無く交換が成立してしまう謎のマーケットが存在する。謎の商品と完全商店街は、脱領土化と再領土化が織りなす資本主義の動態そのものの有り様だ。母が娘に買ってきて欲しかったのは、「売る/買う」の神秘それ自体だったのである。