ゼロ度の街@五反田物語/今日も渋谷のはじっこで。

 

年末、私は珍しくコミックを読んでいる。街に関する物語というテーマで探しており、作者やジャンルにはとくに拘っていない。前にもいったが「街に関する物語」というものが、一体どのような作風を指しているか、実際のところ自分でもよく分かっていない。これの輪郭をはっきりさせることも、いろいろ読みあさるなかでの目的のひとつになっている。そこで今回、これまで読んだなかから、次の二冊を紹介しよう。
 
青野春秋『五反田物語』と平尾アウリ『今日の渋谷のはじっこで』である。もちろん、街の名前がタイトルなっているという理由で、この二冊を選んだわけじゃない。双方の作品には、他の作品にはないある共通点が存在する。街を舞台にしながらも、街は描かれないという点だ。
 
むしろ、街を描きようがない余白として描いている。白くて、いや白色ですらない透明な街。なんでも透けてしまう、からっぽで空虚な街。温度を欠いた、ゼロ度の街。そのような街を舞台にして、登場人物達もまたゼロ度の風景と化したまま話が進行していくのだ。もっともここで「話」といったが、それは物語というにはあまりにも淡泊でフラットな展開が続く。
 
街が主人公になる物語とは、こういうことなのかもしれない。ただし、『五反田物語』が最終的には古典的な物語性を回復するのに対し、『今日も渋谷のはじっこで』はそれすらないと思った。この点において両者は対照的である。

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『五反田』は、無表情な青年と風俗嬢の純愛モノに落ち着く。ゼロ度の街や登場人物は、そのようなロマンを際立たせるための前フリとして機能している。そう考えると、『五反田』のゼロ度は凡俗で、ちょっとずるい作風かなとも思う。
 
一方、『渋谷』のゼロ度はこれとは違うものだ。23歳の主人公は、セーラー服を着ておっさんと援交して生活費を稼いでいる。作中、変態の客におぞましいプレイを要求されたり、知人にバレたり、運命の人が現れたりで、わあ、もうこりごり!ワタシ足洗います改心しました・・なぁんていうベタな展開はない。ただ、客の男に「2万でどう、え?だってキミ、コスプレでしょ?」といわれるだけだ。

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けれども、この一言こそセカイ(渋谷)の終焉なのだ。少なくとも彼女にとっては。それは、キモイおっさんに抱かれること以上に陵辱的な出来事なのである。もう自分は女子高生を演じられない。改心というより、渋谷と同化できなくなった愁いを抱きながら、彼女は生計の糧をコンビニのバイトに換える。
 
彼女にとって、援交とコンビニのバイトあいだに絶対的な隔たりは存在ない。それらは並置可能な職種である。もう渋谷でセーラー服を着ることはできない。おばさんになっちゃった。彼女がコンビニの店員になるのは、それだけの理由だ。いやむしろ、街のどこにでもいそうなフリーターになることで、23歳の彼女は「女子」というポジションを再び獲得したかに見える。そこに物語性は無いが、グロテスクでフラットな街の本性を垣間見たような気がする。
 
平尾アウリという絵描きは、以前から絵それ自体はかなり上手いなと思っていたが、物語性が皆無で描かれた登場人物は人形らしく体温がなさそうで作品全体としてはつまらなかった、という印象がある(そんなに読んでいないので断言は避けるが)。ただし『渋谷』は、彼女の限界を逆手にとった作品で、マリオネットが空しく踊る風景を介して、街のゼロ度を描写することに成功していると思った。少なくとも『東京シャッターガール』に見た、例のちぐはぐさはこの作品には感じない。

 
 

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