道に迷うための地図。
(続き)結局、私たちが地図を必要とする場合は、
[束縛された空間&自由な時間感覚]と[束縛された時間&自由な空間感覚]の
二つのケースだと思う。以下ではこれらと地図の関係を考えてみる。
[束縛された空間&自由な時間感覚]における地図
移動手段の有無や心理的要因など、
何らかの理由で空間の移動に制約がある一方、
時間の過ごし方に制約がない場合がこれに相当する。
例えば、あなたがミラノのカフェで
丸1日ひまをつぶすとき、物理的に身動きできないが、
時間的に開放されていることになる。
そこで「どうしてイタリア人は雨でも傘をささないんだろうか」とか、
いろいろと物思いにふけったり、
時間に追われない創造的な仕事(少なくとも本人はそう思っている)
をしたりするにちがいない。
したがって、地図はそのようなスポットがどこにあるのかを
ユーザーに告知するように作成され、事実そのように利用されている。
さて、ここでの地図は次のような特徴を持つ。
- (自由に思索するための)束縛された空間地点を定める
- そこへの合理的な道順を指し示す
- 始点から終点までのグラフ理論的な経路となる
つまり、この地図では
「目的地までの道順はルーティンだけれども、
その目的地にさえつけばあなたは時間を忘れることができますよ」
ということになる。
実際、ガイドブックなどの地図は実際こういうものが多いと思う。
[束縛された時間&自由な空間感覚]における地図
しかし、観光・散歩・デートというものは、
行動のタイムリミットは決まっているが、
他方において移動は自由なことが多い。
この場合の空間感覚はグラフ理論的な「点と線の最短経路」ではなく、
「境界があいまいな面」の探索それ自体が目的となるはずだ。
そして、これは態度の問題であって、
外国でなくても日常の生活空間ですら可能である。
オリンパスのE-410のコピー“GO FIND YOUR WONDERS”が、
宮﨑あおいの日常再発見ツールとしてのカメラを意味したように。
一般的に、私たちは地図を、
「道に迷わないためのもの」
「目的地への最短経路を選択するためのもの」
と考えがちである。
しかし、地図とはそれだけのものだろうか。
もう一つの地図。それは、私たちの「探検や再発見」
という本能的な空感を呼び覚ます。
それは、一般的な地図とは逆の機能を持つ。
すなわち、「ちょっとよりみちしたくなる地図」であり、
よりラディカルに言えば「道に迷うための地図」である。