時間的束縛、空間的束縛、そして地図

 

前回は「時感」の話をしたが、そこで言いたかったのは、
タスクの忘却と再認こそ、人の本質的な時間感覚だということである。
時計は、単に「今、何時何分なのか」ということを
知るためにあるのではない。

「時感」管理としての腕時計は、タイマー機能が重要なのだ。
ただし、このことは時計メーカーとユーザー双方の理解が乏しいのだった。
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そこで今回は「空感」と地図の話をしよう。

マイカーであれJRであれ、通勤や通学時における、
あの何とも言えない息苦しさの原因はな何だろうか。
遅刻しない時ですら、私たちは窒息しそうになるのはなぜか。

それは時間的束縛からだけでなく、
「寄り道できない」という空間的束縛も存在するからだ。
つまり、通勤・通学は、
時間的に・空間的双方によって束縛されている。
昔のツアー旅行や自由時間のない京都の修学旅行生なども
これに相当するだろう。

いうまでもなく、この半自動的なルーティンにおいて
地図という道具はそもそも必要ない。

他方、時間的にも空間的にも束縛されない状況を考えよう。
それは遊牧民nomadの生き様に象徴されるだろう。

ドゥルーズ=ガダリも『千のプラトー』で弁解していたように、
実際の遊牧民ですらその行動はルーティンな要素を含んでいる。
ただし、形而上的な意味での遊牧民は一つの態度として存在している。
それは、現代の私たちにとって、ルーティン化した日常に
非日常をインストールするための儀礼でもある。

私たちが遊牧民となるとき、そこには始点も終点もない。
夏休みの大学生が、不意に無計画な一人旅を始めたり、
OLが空気を読まない有給をとり、手ぶらで街を散歩するとき、
彼・彼女は遊牧民である。
遊牧民は目的地を持たない。
存在したしても、それは暫定的なものである。
やはり、それはそれで地図は必要ない。(続く)

 

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