千手観音@唐招提寺。
奈良に住んでおきながら、唐招提寺に行っていないのはどうかと思ったので、仕事帰りにちょっと寄り道してみた。写真はすべてセブンイレブンで買った「写ルンです」です。ISO1600なので荒いです。
JR奈良駅バス停の「東口6」乗り場から。260円で20分くらい。
到着するも、仏像は撮影不可。そーゆーの、ちゃんとHPに書いとけよな。鑑真像のレプリカ、身代わり像も撮影不可。それ、身代わりになってないやんw
「千」には、実数としての1000だけでなく「無限」を意味することもある。ジョセフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』の「千」は無限のことだ。仏像の千手観音の「千」も同様だろう。無限の手は、あらゆる者を救うためにあるのだ。
ここ奈良の唐招提寺にある千手観音は、本当に1000本の腕(953本が現存)を備えた仏像として有名だ。しかしなんだろう、この表層的な数値スペック重視のデザインコンセプトは・・・奈良に着いた鑑真は、もう目が見えなかったからスルーしちゃったのかしら。当時の生意気なガキは坊主にこう言ったに違いない。
ええ? 1001人目は救われないんですか?
けだし、唐招提寺の千手観音は造形美の本質を捉え損ねている。首が落ちただけの破損仏像を「唐招提寺のトルソー」としてインテリが持てはやしたのは、無限をフィジカルに表現してしまう千手観音への嫌味ともとれなくもない。そもそも東大寺の大仏もデカいだけで下品ぢゃないか。興福寺の阿修羅像みたいなアートっぽさがない。凄みを必死でアピっているが、すでにその必死さが興ざめなのだ。
百済文化を背景に興った奈良時代は、次第に唐の大味な大陸文化へと推移していった。そこで具体的に何があったかは知らないが、結局のところ美へのデリカシーを失った平城京文化は破綻し、京都でまつりごとを仕切り直すことになる。さらにその100年後、遣唐使は廃止されるのだった。
教訓。京(みやこ)が滅びようとするとき、その兆候としてグロテスクな記念碑が建つという。