人間のようなロボットとロボットのような人間。
「ロボット」という呼び名はチェコ語のrobota(労働)から由来している、と岩波の小説『ロボット』の後書きに書いてあった。だけども、この小説から90年たった現在、ロボットはいっこうに人間の労働を肩代わりしてくれない。
それは「ロボットのような人間」を作った方が安いからだ。純粋にコストの問題なのですね。例えば『ロボット』から数年後に公開されたドイツ映画『メトロポリス』(1927年)でこの点を踏まえていて、ここではロボットのような人間たちが未来都市メトロポリスを支えている。登場するロボットは彼らを扇動する一体だけ。そして、労働者たちが機械文明への革命をおこした後で、扇動者もまたロボットであることにはじめて気付く。結局、ロボットのような人間たちはまたもや機械に踊らされていた、という皮肉がここにあります。
まー、とにもかくにも失恋して乗客をまきこんで山につっこむパイロットとか、そーゆーのはやめてほしいですね。それならオートパイロットでいいじゃないか、って思います。付け加えると、病んでる人間を経営コスト的誘因から使っちゃうルフトハンザのシステム・エラーとも言えるかなあ。あ、まだそんなにガラってないのね。