狂い。

 

まだ、上手い言い方ができないんだけど、「2001年宇宙の旅」のコンピュータHALはどうして狂ったのかについて考えるとき(私は「2010」のアーサー・C・クラークの解釈では満足できない)、とりあえずこの二作の考察抜きにはムリだと思ったでござる。

「博士の異常な愛情」「未知への飛行」のどちらも同じ時代の同じ内容の話です。冷戦というよりも、水爆が強力すぎて戦争自体が制御できないという話です。ちょっとした機械の誤送信から人間のエゴとかが絡み合ってアメリカとソ連が核戦争しちゃう話です。

スタンリー・キューブリックは、それをコントみたいな喜劇にちゃった(ラストは司令室でパイ投げして終わる・・・はずだったんだけどJFK暗殺で自粛したらしい)。一方で、シドニー・ルメットはシリアスな内容に仕上げる。60年代のモノクロ映画だけど、今見ても、どっちもめっちゃ面白いです。ってゆーか、両方で一つの作品だと言えるね。

キューブリックは、セカイが破局にいたる「狂い」を、リアルの政治機構それ自体がコメディ化していることを皮肉をこめて映画化した(原作はシリアスなんだけどね)。機械の誤作動は、破滅の要因の一つにすぎない。

ルメットも同じく、機械の故障は主要因ではない。しかも、大統領とか軍のトップはとても有能で、事態の収拾に勤めている。だから物語は終始緊張が張り詰める。ここでの「狂い」は、人間の日常のなかに潜む、「ちょっと病んでる感じ」が非常時にどばばばっと出てくるところにある。

文民統制とかいっても、兵士たちの日常に潜むぼんやりした不安までは管理できない。でも、実際に水爆のボタン押すのは現場のパイロットなんです。「未知への飛行」ラストシーン。モスクワ上空にいたあの米軍パイロット、大統領が無線で怒鳴っても、奥さんが「やめてー」って絶叫してもそれを無視したけれど、さすがにその時は本当は気付いていたよね。このミッションが手違いによるものだということに。

セリフにも明示化されていたけれど、水爆をモスクワに落としたら、米軍パイロットも被爆して長生きはできない。その前提でソ連領に特効しているわけです。そして、仲間も撃墜され残り一機の極限状態で、標的を捕捉しているのに、いきなり奥さんが出てきて「ごめーん、そのミッション、ウソやねーん」って・・・すごく緊迫したシーンなんだけど、パイロットからすればブラックユーモア以外の何物でもないんですよ。

「博士の異常な愛情」は、第三者目線のブラックユーモアだけど(原作はイギリスだし)、「未知への飛翔」は当事者はマジメにやってるのに、ブラックユーモアのパイをいきなりばちゃっと投げられる。なんというメタ・ブラックユーモア!

この米軍パイロットは、融通の利かないバカなパイロットではない。むしろ全部わかってしまったんです。この世界のくだらなさが。だから彼はこう考える。もう終わりにしようじゃないか。こういう喜劇じみた日常の方を、と。

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