伝説のクソゲーとは何か。

 

アメリカで廃棄されていた伝説のクソゲーが発掘されたらしい。

ごみ廃棄場で数百個“発掘” 「伝説のクソゲー」がスミソニアン博物館のコレクションに_-_産経ニュース

ファミコンよりも以前に発売されていたアメリカのゲーム機にATARIというものがあって、伝説のクソゲー「E.T.」はこれに対応したゲームソフトだった。そう、あのハリウッド映画をゲーム化したものである。そして、ゲーム画面がこれw

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ところで「伝説のクソゲー」という表現は矛盾していないか? そもそもクソゲーは、その名の通りクソであるがゆえに一般にその存在を知られることがない。しかし「E.T.」の場合は、あの感動をビデオゲームでもう一度と思ったかどうか知らないが、とにかくこれを大多数が買ってしまったのである。しかも、子供へのクリスマスプレゼントとして。

人生の辛苦を知る大人は、仮にクソゲーをつかまされても、ATARIならこんなもんかなぁと妥協したり、自身のリサーチ不足を反省したりするものだ。だが、子供にはそういう諦念とかハード上の制約に関するお約束なんか通用しないのである。「E.T.」である以上、あの感動的な自転車のシーンを(BGMを含めて)再現できなきゃダメなのだ。かくして少年はゲームをプレイして愕然とする。ジーザス!!何コレ、映画と全然違うじゃん!と彼はわめいたのだろうか。あるいは、サンタさん気取りの両親をがっかりさせたくない一心で、少年は心の中でコレジャナイ!!と絶叫しながらも、表向きは「E.T.」を楽しんでいるでフリをしたのだろうか。

いずれにせよ「E.T.」というクソゲーが「伝説」となった背景には、1982年のクリスマスに刻まれたアメリカン・ボーイたちのトラウマが関与している。たぶんね。そしてこのATARI=クソゲーという評判が定着し「アタリショック」の引き金となったのだ・・・なぁんてよくネットに書かれているけれど、そもそも「アタリショック」なんて言葉は「ATARI SHOCK」でググってもヒットしません。NHKの1996年に放送した『新・電子立国』の解説で「アタリショック」という造語が使われて、みんなが誤解しちゃった。

「アタリショック、ゲーム業界では82年のクリスマスで起きた市場崩壊をこう呼んでいる」。いやいや誰も言ってないしw あと、このNHKの取材内容も微妙にあやしいんだよね。でも総じて良い番組なので見た方が良い。

そこで私が所持する資料に注目されたし。「VIDEOGAME ILLUSTRATED」の1982年の12月号だ。ふむ、表紙からして期待されていたんだねえ。発売前のレビューも乗っている。「このゲームは、スターウォーズのような(映画をゲーム化するメディア・ミックスの?)さきがけとなり、パックマンと同様に商業的成功をおさめるだろう」だって。しかし肝心のゲーム内容は伏せられてる。発売前でも出来ていなかったのかな。もし事前にゲーム画面が出ていたら、買うのをやめた消費者も多かったかも?

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アタリショックは、米国では「The Video Game Crash of 1983」と呼ばれていて、ATARI社の凋落は確かにこの辺りから始まっている。しかし、それはNHKが言うような「ATARIのクソゲー連発による自業自得」によるものではない。その背景にはいろいろあるんだけど、まあ、その一つを紹介しておこう。それは当時の日本のアーケードゲーム業界と関係が深い。

1982年頃になると、かつてATARIの独壇場だったビデオゲーム市場が、他のライバルメーカーの参入によって、プラットフォーム自体が競争市場へと変化していく。先に挙げた雑誌の裏表紙には「コレコビジョン」の広告が掲載されている。このハードはスプライト表示を可能にするグラフィックチップTMS9918を搭載し、任天堂の出世頭「ドンキーコング」を上手く再現していた。ATARIでも「ドンキーコング」は発売されているが、ゲーム画面はオリジナルと比べてかなり見劣りする。つまり、すでにATARIはクソゲー云々以前の問題として、ハードの性能自体が時代遅れになっていたのである。

現在から考えると自明すぎて軽視しがちだが、コレコビジョンは「アーケードゲームをリビングで遊べる」という新しい付加価値を提示した(まあ、初期のATARI社だって「ポン」を家庭でできるようにしたわけだが、それ以降は明示的な戦略としては存在しない)。1980年前後は、インベーダー、パックマン、ドンキーコングといった日本製のアーケードゲームがアメリカとヨーロッパで脚光を浴びつつあった。そこでコレコ社は、日本の各ゲームメーカーとライセンス契約を結び、それらを家庭用ゲーム機に移植したのである。その移植クオリティは、コレコのドンキーコングは本家任天堂のスタッフを驚かせた程だ。当時の常識としては、移植とは何らかのデフォルメが施されるのが常識だったが、オリジナルと遜色のない(今の水準から見れば大アリだが)品質が保たれていたのである。以下の動画は歴代ハードに移植された様々なドンキーコングである。

 

実はATARIのハード売り上げは発売時の1977年から低調で、1980年のATARI用のスペースインベーダーによって上昇気流にのったのである。ATARIの日本での販売はエポック社が担当していた。この時、日本ではインベーダーブームで、すでにエポック社も「デジコムベーダー」という電子玩具をヒットさせていた。日本でATARIを売るためはインベーダーゲームが必要だと考えたのは自然な流れだった。こうしてエポック社の要請を受けて、ATARI版スペースインベーダーが生み出される結果となった。皮肉にもこの戦略は、極棟のローカル市場を超えてアメリカ本国でも功を奏したのである。

そうであるにもかかわらず、1983年以降のATARI社は、ゲームプログラミングに特化したPCの開発に傾注していく。無名のアップル社がApple2コンピュータで大躍進していくのを目の当たりにすれば、それは自然な成り行きだったのかもしれない。しかし、それはゲーム市場においては方向性を見誤った考えだった。一般大衆は高価な機材でゲームを作りたいのではなく、あくまでも安価で良質なゲームソフトをプレイしたかったのだ。例えば、ペンと紙を与えても小説家になりたいと誰もが思うわけではない。また、Macがこんなに普及した現在でも、iPhoneアプリ作成に関心を持つのは少数派ではないか。

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余談。実は任天堂は、この「コレコビジョン」を「ファミコン」として日本で販売する予定だった。しかしコレコ社に法外なライセンス料をふっかけられた任天堂の組長社長はぶち切れて、コレコビジョンよりも高性能な独自ハードを開発しようとする。それは仁義なきコレコビジョンのドンキーコングを上回ることが至上命題となっていたのだ。オリジナルのドンキーコングは、Z80や潤沢なメモリを何個も連ねた高価な基板だ。対してファミコンは二個のカスタムLSIチップだけでこれに迫ろうとしただった。

ファミコンは、コストを切り詰めたハードという印象が強いが、実際にはエンジニアやマーケターのどちらの論理からでも生み出し得ない、特異なスペックだ。それはコストの制約とオリジナルのドンキーコングのフィーリングの整合性を、実際のプレイ感覚から逆算してハードを設計していったことに由来する。

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