Tokyo_Gray@AKIHABARA.
街がかつての活気を失うとき、そこには二通りの崩壊パターンが存在する。
その一つは、文字通りに、うらぶれたスラム街へと転落するケースだ。そしてもう一つは、見た目とギャップがあるので見逃しやすい。それは小綺麗なハコモノ建築でその場所が覆いつくされるケースだ。そのとき、街は、クリーンな死体となる。どれほど巨大で立派な建造物であったとしても、その界隈本来の場所性にとって、それは死を意味している。
かつて、家電の街として名を馳せた二大拠点、大阪日本橋と東京秋葉原の現状が、この対照的なパターンの見本となっている。
大阪の日本橋は、ゼロ年代以降、家電やPC関連の商業集積から、コンテンツ・ビジネスとへシフトしていく。しかし結局、ソフトウェア産業もまた斜陽化し、扱うべき商品が枯渇し街は寂れていくのだった。そして現在、日本橋はハードでもソフトでもなく、メイドリフレに象徴される昼間の風俗街になろうとしている。
他方、秋葉原も日本橋と概ね同じプロセスを辿りつつも、街並自体はこれがかつての秋葉原かと思うほどまでに洗練されたものとなった。
しかし、それは同時に秋葉原が元来持っていた闇市的・サブカル的賑わいの自己否定を意味している。10年前、森川が指摘した萌えストリート、「趣都」らしさも、現在では薄らいでいる。いまや東京全体が、どこかしこも場所性を喪失しているのだ。顔の無い街ばかりが点在している。新宿の「ビックロ」に象徴されるように、新宿の新宿らしさは空虚なコトバ遊びでしか識別できない。
秋葉原は、この失われた場所性を「メイド文化」やテンプレ化したオタク消費で担保しようとする。だが、それですら本質的な空虚さは穴埋めできない。なぜなら、そもそもオタクとは、企業サイドに囲い込まれた消費者などで満足できない存在だからだ。日本を牽引したオタクはアナーキーかつ表現者であり、単なるコレクターではなかった。
AppleⅡが出たとき、基板からボディまでフルコピーされて、格安の組み立てキットとして売られているのが秋葉原だった。今の秋葉原にあるのは、アニメの絵を描いたプラスチックの「限定!」iPhoneケースぐらいだろう。
周知の通り、かつての秋葉原的なものはWebサイトに移行している。そして「再開発」の名の下、一つの街の死を小綺麗で巨大な建造物がオーバーライドして、その事実をかき消そうとする。
しかし、大型量販店ですら「アマゾンのショールーム」と揶揄される昨今、果たしてここ秋葉原の再開発など本当に意味があったのだろうか。街のクリーンな死体がここに転がっている。