モノを超えたデザイン。
iPhone6の現物をさわってきた。現物を見るまでは直線的な5sの方が好みだったけれど、6と6Plusのゲンブツは5sよりも良いと思った。独特の丸みは、実際に持ってみないと分からない。反対に、アクオスケータイとかギャラクシーは広告ではかっこ良いのに、現物ではそれほどでもない。。。触ったときの質感で損しているなあ、と。
そして同日、ソニーのXperiaがVAIOに続いて事実上の撤退を発表した。そりゃあ、OSをマイクロソフトやグーグルに依存している以上、ハード屋なんか「鵜飼いの鵜」でしかないからねえ。ソニーに入る社員が優秀でないわけがないのに、一つの組織としてはまったく機能していない。どこの大学でも偏差値低いけれど、社員を束ねる経営学ってやっぱ大事だよね。
で、iPhone6 PlusのSIMフリーを三週間待ちを覚悟で予約した。そしたら、これにあわせて良いヘッドホンが欲しくなる。アップル・デザインに哲学があるとすれば、こういうところなんだと思う。そのデザインの文脈や環境までもデザインを求めてくるような浸透力。もう、ここまで薄くなると、カバーつけるのは野暮ったい。touchにカバーつけている人はいないでしょ? その代わりに、イヤホンとかカバンをiPhoneに合わせて新調したくなるねえ。
日本人のデザイン感覚は目先のモノしか見ていない。全体のバランスや統一感、そのモノが使われるシーンや佇まいを真剣に考えていない。デザインを「ガワ」「金型」レベルでしか見ていない。話は飛ぶけれど、これは日本の街並みの美学にも当てはまる。景観を破壊する高層建築、伝統を無視した奇抜な建築が「すごい」というセンスは発展途上国のそれであって、成熟した国のセンスでは無い。こういう国際常識が欠落している国民に「おもてなし」なんて無理だと思うんだ。英語以前のデザイン言語の問題として。