網状資本論4@ウォーラーステイン。

 

「近代世界システム論」で著名なイマニュエル・ウォーラーステインは、前掲したフェルナン・ブローデルの後継として理解されている。しかしながら私見では、両者はむしろ対照的な存在だと主張したい。確かに、双方のフレームワークは、通俗的な意味での「国家」を相対化するアプローチであるという点で共通している。

ただし、ブローデルが地政学的唯物論としての「環境」という観点から「国家」を相対化するのに対して、ウォーラーステインは支配/従属関係が超国家規模で展開するヒエラルキー・システム、すなわち「他の国家を統制するより強大な国家」を見出すのである。

ウォーラーステインの理論枠組は、例えば現代のiPhone工場に象徴されるように、現代でも一定の説明力を持っていると言えるだろう。だが、そのグローバルに展開される支配と服従の関係性(従属理論)は、あるプロセスの「結果」として見出される平衡状態でしかない。この意味では、ウォーラーステインの歴史学には皮肉にも「履歴」が存在しない。

すなわち均衡論的なヒエラルキー・システムは、その時点では一見安定的に見えるが、そのことが未来においてもそうであることを何も保証しはしない。確かに、ウォーラー・ステインは世界史におけるヘゲモニー(中心都市)の転移を形式的には認めている。だが、近代世界システム論は、ヘゲモニー転移の動学と見なすわけにはいかない。なぜなら、そこでは結果としての平衡状態・ヒエラルキーを羅列しているだけだからだ。ここにおいて、ウォーラーステインは歴史が内に秘めた動力源を見失っている。

ブローデルは、この文脈において再評価されるべきである。彼の視座の有効性は、単なる西洋史を超えて素朴な「支配/服従」で硬直したヒエラルキー・システムをも相対化するような歴史観を持っている点にある。ある領土の内に存在しながら、これをトポロジー化して脱領土化していく都市間ネットワーク。しかもブローデルの世界=経済(世界経済ではない)においては、この網状は絶えず変化していく。必然的に、このネットワーク構造の如何によってヘゲモニーも移転していくのだ。

また、ブローデルの着想は歴史学を超えて、ドゥルーズ=ガタリにとっても重要な哲学的モチーフとなっている。

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