「消費」をやめる、という本を「消費」してみて思うこと。

 

平川克美の「消費」をやめる、という本を税込み1720円を支払って、読んでみた。

前著の『小商いのすすめ』は、本ブログ「ならねこ。」の公式テキストの一つと言っても良いぐらいの名著だと思います。なので、本書も結構期待して「消費」してみたのですが・・・

率直に言ってダメです。内容的に前著よりも後退しているんじゃないか。なぜ、そう思ったのかを「ならねこ。」のポリシーから述べておこう。

  • 本書には未来がない

彼の議論には「未来」がない。これから先のことについての救いとか希望が無い。彼の時間軸は、ひたすら過去へのノスタルジアに、つまり下町の商店街に安らぎを求めてしまうのです。しかし、そもそも下町の商店街がその風情を維持しているような場所は、東京と大阪の大都市ぐらいでしょう。奈良市内は奇跡的に残っていますが。しかし、それ以外は基本シャッター街です。なので、そんなこと言われても世間一般の読者からすれば「はあ?」なわけです。レトロを慈しむような生活スタイルは、実は東京だからこそ可能なのです。

  • ITについて

「ならねこ。」目線でいうと、地方でも商店街というコミュニティは、ITと結びついてさらなる活性化が期待できると思います。本書にそういうトピックは一切登場しません。本書に未来が無いのはまさにこういう所なんですよ。実はこれ、著者は意図的にそうしています。なぜなら著者にとってITはもうコリゴリで、それは忌むべき厄介者なのです。またこのことは、本書の存在理由とも関係があります。

  • なぜ著者はコレを書いて、そしてコレを売るのか?

本書の主張は、消費社会はダサイ!というメッセージで貫徹されています。それでは、なぜ著者はコレを「生産」し、私たちに「消費」させようとするのか?っていうメタなツッコミがあるわけです。少なくとも毎日タダでブログ書いている私には、これを言う権利がある(^^;) まあ著者は正直な人で、本書にその理由を述べています。以下引用。

怖いのは借金です。わたしの場合はけっこう大きな借金があるので、始終働き、たくさん本を書いて、おカネを稼がないといけません。本当は、何もせずにボケーッとしていたい性分なのですが、まあ仕方なしにそういうことになっています。p. 37

わたしの目の前から、七億円もの大金が消えてなくなってしまいました。ビジネスカフェジャパンが投資した五億円と、リナックスカフェに注ぎ込んだ二億円。経営者として力がなかったといわれればそれまでですが、わたしの手元には、そのときの借金がまだたくさん残っています。p. 90

皮肉にも本書は、著者の借金返済のために存在しているようです。本書の内容が後ろ向きで妙に暗い理由はこれですね。

  • エネルギーについて

消費するにはその前に生産があって、そして何かを生産するには何らかのエネルギーがいる。だから消費の在り方を問うことは、間接的にエネルギーの在り方を問うことでもあります。またヒト・モノ・コトの流通にしても、従来は「物流・商流・情報流」というカテゴリーで語られてきたわけですが、実は第四の流通として「エネルギーの流通」という課題が潜在していた。とはいえ、この問題は実質的にスルーされてきたのも事実です。例えば関西人は関西電力から電気を買うのが当たり前だと思い込まされてきたからです。サヨクの人もそんなイシューはチンプンカンプン。まったく、NHKの支払いは拒むくせに、みんな電気代には従順なんだよなあ。ただし3.11以後、多くの人がこの問題に気づき始めてきている。

そうであるにもかかわらず、この著者はエネルギー問題に無頓着です。これに関して何も語りません。しかし、マイクロな生産と消費は、マイクロな発電や送電と密接に関わっています。ソーラーなどの発電システムは「自分で使う分は極力自分で発電する」「余ったら近所とシェアする」という分散型のエネルギー流通の可能性を切り開くものです。それは地域貨幣や贈与経済とも関係してきます。なぜなら究極の貨幣とはエネルギーであり、しかもそれは贈与できるからです。

こういう話を求めて本書を「消費」したのに・・・ざんねん期待外れでした。本書はアメリカ批判、消費社会批判、そして商店街への郷愁が延々と繰り返されるだけです。その内容は「ならねこ。」のポリシーと反するものではないのですが、しかし、まさにこのステロタイプな切り口こそ、著者自身が批判するユニクロ的なファストファッション的言説だと思うんですよ、ねー。「銭湯経済のすすめ」なんていうサブタイトルにしても、いかにも昭和の広告屋が好みそうなコピーです。売るのに必死やん。それはやっぱり借金のせいなのでしょうか? だったらやっぱり怖いです、借金。『里山資本主義』なんかは、ちゃんとエネルギーの話をしているのにー。

  • リーマンショックと3.11

著者はITバブル崩壊で大損して、恐らくリーマンショックでトドメをさされたんでしょう。億単位の借金を前にして、彼は「死」を垣間見たんじゃないでしょうか。彼のタウンスケープは死者の眼差しに定位している。そして、そこには未来がない。途切れた未来はセピア調の古写真で誤魔化すしかないのです。

そんな彼にとって、3.11よりもリーマンショックの方が、いまだにインパクトが大きかったのでしょう。それゆえ本書は、アメリカ型資本主義への怨念が至る所について回るのです。未来志向を持つ読者には、本書のマインドとの間にある種のミゾを感じるでしょうね。

私に言わせれば、いまさらリーマンショックなんかどうでもいいんですよ。私たちが考えるべきは、福島県産の米や野菜を本当に「消費」していいのかどうか? なぜ株式会社であるはずの電力会社が競争もせず一方的に値上げするのか? そして、なぜそれを無批判的に「消費」するのか? さらに、こういうリアルをすっとばしてしまう経済学や社会学なんてものは、もはや無用っす、あばよ!っつーことなんです。いまや大学人なんてものは象牙の塔の仙人ですら、ねーよ。浮き世離れした屁理屈うだうだ言ってる大学は、ただの痴呆サナトリウムだわ。

紋切り型のアメリカ批判、ソーシャルなんとかみたいなセカイ系屁理屈ポエム、あああ、もう、そーゆーの、うんざりです。欲しいのは、眼前の地べたのソーシャルネットワーク、すなわち地縁をどうデザインして、どう維持していくのかっていうことなんですよ。文系理系を超えてね。

2014.10.10 加筆修正

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