ざっかん@終末の準備体操。

 

鳴り止まない拍手。私は壇上に立っている。いったい、私は何をしたのだろう。 暗がりのなか、乾いた拍手だけが単調に響き渡る。姿の見えない聴衆に言葉を発しようとしたとき、目が覚める。私は夢の中で何を言おうとしたのか。拍手はまだ続いている。窓を見るとそれは雨音だった。

昨日。アプリ開発用のiphone5sの新品同様品を求めて大阪・日本橋へ赴く。休日だというのに人通りが少ない。シャッターも目立つ。前方にカップルがいるが、よくよく見るとビジネス・デートのようだ。それは海外では人身売買に相当する、という記事を思い出す。そもそもいかがわしい流通ルートのiPhoneを求めてやってきた私だって、カタギではない。日本橋筋商店街は闇市と化している。うらぶれた街路に響くアニメ声優の商店街案内が、えもいわれぬ終末感を漂わせている。

その後、プログラミング言語の新刊チェックのため、北上してジュンク堂千日前店へ。プログラミング言語にも流行廃りがある。例えば、アップルのObjective-Cは、iPhone以前までは見向きもされなかった言語だった。それがiOSバブルで一気にスポットが当てられる。だけれど、先々週にアップルは新言語の「ツバメ」を発表する。旧世代の言語と化したObjective-Cは、またもや世間から忘れ去られていくのだろう。

話は変わるが日本語もそうなると思う。アジアの辺境の島国のコトバが、戦後の奇跡的な復興と共に日本語ブームが世界中で起るも、やはりこれも一過性のブームで終わるのだ。ジュンク堂内の棚を見回してもロクな本がない。タイトルだけで中身が透けてみえるようなものばかりだ。出版業界云々というよりも日本語自体にパワーがない。

100年前の日本語の本は、これが日本語なのか?というぐらい読めない。戦前に翻訳されたゾンバルトの『近代資本主義』を手に入れたとき、そう思った。それだけ日本語は文法的にも記号表記的にもぐらぐらしている。100年後の日本人は現在の本が読めないだろう。100年後、日本という国が存在していればの話だが。

これから日本語を操る人口自体が激減していく。しかも、その人口の内訳は高齢者が多数を占めることが確定している。未来の無い老人達の言語。そんな言語に需要があるわけがない。こんな雑感ゆえに、最近の私は、無味乾燥だが少なくとも世界に開かれているプログラミング言語にしか興味が持てないのだ。

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