NEW_WORLDS, NEO_SLUMS.
最近、大阪の新世界から天王寺へ歩いて抜けることが多い。
すると、開発ラッシュにわく天王寺界隈、
時代から取り残された西成地区、
両者のコントラストが実際の風景としてはっきりと浮かび上がってくる。
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ただし、ここでは「都市とスラム」
といった評論くさい二分法は当てはまらない。
観光スポットとしては、むしろ新世界のほうが賑わっているからだ。
三浦氏の「ファスト風土」は、ファーストフードやチェーンストアばかりが
目立つ地方を揶揄した言葉である。
もともと、このダジャレは郊外論から出てきたものだ。
しかし、いまやファスト風土化は都市そのものに当てはまる。
もはや豊かではない大衆のニーズに、資本が応えようとすれば、
必然的に都市自体がユニクロ化=郊外化するのだ。
それは、従来の都市にとって、前進への駆動力を欠いた空虚であって、
いかに着飾っても、本質的にきらびやかなスラムでしかない。
もはや「スラム」とはシャッター街のみを指すのではない。
新しいスラムのかたちがここにある。
現代のマーケティング・クリエイティブなるものは、
この本質的にダサい商品・サービスを、
いかにごまかすのかという小手先の手品でしかない。
しかも、現代は「タネも仕掛けも」すべてネット上で
容易に暴かれてしまうご時世である。
「ステルス・マーケティング」という批判的タームの存在自体が、
従来型マーケティングが機能不全に陥っていることを示唆している。
さて、こんな閉塞感しかない消費社会で、
「同じアホなら踊らにゃ…」というのもアホらしい。
それなら、本物のスラムをテーマパークとして楽しむほうがマシだ
というニーズが誕生する。
他方、資本は当惑しながらも、
消費者の反資本という欲望に引きずられていく。
これを具現化したものが、現在の新世界である。
私は、ここに爛熟から頽廃へ向かう資本主義の原風景を見てしまう。
しかし、まだマシなのかもしれない。
お化け屋敷が心地よく怖いのは、どんなに怖くても、
必ず出口が用意されていることを皆が知っているからだ。
万が一、お化け屋敷の中で本物のお化けに遭遇したとしても、
とりあえず出口を目指して走れば良いのだ。
これは希望に開かれている。
本物のスラムをテーマパークのように楽しむ消費者の余裕は、
それでもこの国の都市は発展し未来を切り開いていけるという
「出口」を信じていることに由来する。
もし、そんなものがないとすれば?
映画「キングイズアライヴ」のように、
人は出口がないことを知ってしまうと、
まるで「新しい世界」が切り開けるかのような物語世界に浸るのだろうか?
結末が悲劇であったとしても?
PHOTO:
OLYMPUS E-P1 + M.ZUIKO DIGITAL ED 17m F2.8