逢魔時の朱雀門。
平城京遷都1300年記念で復元された平城宮大極殿には、莫大な予算がつぎ込まれた。だが、平城京は平安京のように人々の営為が現在まで存続していたわけではない。10世紀にわたり、そこはうち捨てられた荒野だった。歴史的にいって、平城京跡とは、それ以上でも以下でもない場所である。歴史ロマンに威を借りたなんとか利権、ハコモノ・ドリームランドを礼賛する前に、危惧すべき事があるのではないか。もし、奈良が歴史を重んじる街ならば、春日大社の前の高層マンション、鹿の剥製を店先におく居酒屋、崩壊する町屋の風情などに慎重になるべきではないか。
・・・おっと辛辣かね? ん、なに平城京の場所がわからない? ならば改めて場所を確認しておこう。例えば、大仏のある「きたまち」、町屋が残る「ならまち」は奈良時代では「外京」に相当する。つまり、それらは平城京の「外」にあった。右側の突き出た場所がそうだ。
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現代ではJR奈良駅より東側の地域である。そして皮肉にも、平安京遷都以後、この「外京」が事実上の京となり、今も定番の観光地として栄えている。他方、平城京跡は、朱雀門と平城宮以外は更地で何もない。まあ、うんちくをぐだぐだいうのでなく、実際にいって考えてみよう。necoも歩けば某に当たる。JR奈良駅からバスで北西へ。二条大路へ出て、平城京跡の近くに下車した。ホワイトバランスのずれは、心象風景の投影と理解して頂きたい。
典型的な国道の風景が続いていく。分かっていたが歴史街道なんか、ここにはない。「きたまち」や「ならまち」は歩くのが愉しい街だ。平城京跡もJR奈良駅、近鉄奈良駅からでもゆっくり歩いて1時間以内の範囲にある。ただし、このファスト風土は歩くとげんなりするハメになる。さて、ここの北西に朱雀門、さらにその奥に平城宮があるのだが、とてもそうは思えない。
慌ただしい二条大路から小道に入ると、忽然と現れる更地と朱雀門。風流か・・・否、シュールというべきか? そして、その真横を近鉄電車が駆けていく。朱雀門の向こう、平城宮の中心部は空虚である。本当になにもない。私はその中心に立ち、夕闇に溶けていく朱雀門をファインダーごしに捉え、シャッターを切っていく。その間、この場所に関する様々な疑問と仮説を自問していくのだ。なぜ平城京は廃れたのか、そもそも遷都とな何だったのか、と。
水質の悪化、疫病の発生、祟りの存在・・・いろいろと考えを巡らすが、よく分からない。京(ミヤコ)が廃れたから、新たな京に遷都する必要があったのか? それとも遷都があったから、これまでの京が廃れたのか? 否、そもそも人口が激増していたあの時代、京は併存していたはずだ。どちらか一方の京しか成立しないという歴史観は、そもそも不自然である。
確かに平城京は廃れた。しかし、その後は東大寺・興福寺界隈の外京が宗教都市として栄えたのである。そういう意味では、度重なる遷都は、点としての権力の移動というよりも、ネットワークとしての都市間流通の拡充として理解した方がよいのかもしれない。
さらなる過去。藤原京から平城京に遷都するときも、やはり今のような更地に平城宮から建設したのだろうか。もしそうならば、現在の唐突な感が拭えない平城跡の風景は、飛鳥時代の京建設過程をリアルに再現していることになる。かつて、高度経済成長期にニュータウン建設ラッシュがあったように、当時の飛鳥も公共投資としての京建設&遷都があったのかもしれない。
そうならば、短期間の度重なる遷都は、実は権力の迷走ではなく、むしろ安定政権由来の確信犯的な無計画さを示唆してはいないか。いわゆるバブルである。それゆえに、京建設ラッシュの背景には、皮肉にも、現代と同じくハコモノ・ドリームランド的思想が横たわっていた・・・深読みがすぎるだろうか。いずれにせよ、平城京はそれ以降、顧みられることは無かった。その理由は、よく分からない。思索は堂々巡りになりそうだ。
辺り一帯が夕闇に支配されていく平原。私以外、誰もいない。そこに朱雀門、振り返ると大極殿が浮かび上がる。ふと足下に目をやると、暗闇は私の腰にまで染みこんでいた。この奇妙な世界に捕らわれつつ、私は悟る。逢魔時の朱雀門には何かがいることを。静寂の中、時折鳴りひびく踏切の警報音ですら、もはや日常のそれとは思えない。さあ、帰途につこう。ライトアップされた大極殿が道しるべになる。かの時代の光源は松明だったろう。青白い直線的な光ではなく、炎の光でぼうっと揺らめく平城宮が見てみたいと思った。