『Dear deer』レビュー。
以前からこのブログでも賞賛していた写真家、佐藤和斗氏のシカ写真集『Dear deer』が発売された。読者は本書を通して、やわらかいトーンで捉えられた奈良公園のシカたちとともに、表情豊かな四季折々をめぐることができるだろう。
これまで、奈良公園を舞台にした写真集は、公園の自然美を不自然なまでに強調したり、園内のシカたちを純粋な野生動物であるかのように捉えたものが多かった。しかし、そのような奈良は、あまりにも神々しく美化されすぎて、個人的にはかえって安っぽく思えてしまうのである。誰もいない朝霧の奈良公園。シカのフンだらけの芝に片膝ついて「おい逃げるなって、お前、ひさしぶりじゃないか、ほら食べな、い、いててててっ! 指まで噛むなって!」という、神秘さと滑稽さが混在する場所、これこそが奈良公園の醍醐味ではないのか。
この意味で『Dear deer』は、比較的身近でカジュアルな奈良公園へと誘ってくれる。もっとも、それは素人の観光客が容易に撮れるものではない。本書における撮影者とシカの距離感は「遠すぎず、近すぎない」パースが多い。そこに絶妙な「間」が存在している。例えば、ヒトに慣れていない野生動物は超望遠で撮るために「遠すぎる」場所からの一方的視線になる。他方、東大寺境内のシカたちは、あまりにもヒトに慣れすぎて、まるで飼い犬を撮ったかのような「近すぎる」写真となってしまう。またシカを玩具のようにおちょくり、小馬鹿にしたような下品な動画もネットに散見される。ヒトとシカの緊張感を伴った共生関係は、そのどちらでも捉えられない。
半野生動物との「間」は「遠すぎず、近すぎない」関係に宿るはずだ。写真家が、北海道のエゾシカでもサバンナのインパラでもなく、ここ奈良公園のシカたちを撮ることの意義は、まさにこの独特の距離感をめぐって、各々の写真家が創意工夫できるという点にある。『Dear deer』がもつパースの「間」は、古典的なシカ写真集に対して、改めてこのことを気付かさせてくれるものだ。
ところで、最近の私は、もっぱら「アンチフォトジェニック」な立場をとっている。先の「間」は、写真ではなく動画において、より徹底できるはずだ。それゆえに『Dear deer』に賞賛をよせる一方、私は本書がもつ「止め絵の楽園」に隠顕するフィクションを告発したい。以下の三点の写真への批判は、未来のシカ写真家のためのものでもある。
本書の20ページにシカがウインクしている(かのような)写真があるが、これは止め絵ならではの擬人法である。現実のシカがウインクすることはない。ヤブ蚊がシカの顔付近に近づいて、片目を瞬きさせることはある。しかし、その瞬間を切り取って「ウインク」と解釈させるのは強引であり、演出的にも低俗なものを感じる(他の写真が良いだけに)。
33ページの木陰から片足を上げた子鹿は、明らかに撮影者を警戒した心理状態にある。おそらく、この子鹿はロボットのように硬直した歩みをしていただろう。だが、あまりシカの生態に疎い素人が見れば、その止め絵のシルエットは「絵画的でかわいらしい」と思うかもしれない。一方で、シカを知るものからすれば、それは怯えた子鹿を凝視した写真でしかない。素人を欺すだけの写真ならば、表層的な作品に陥ってしまうだろう。
61ページに霜が降りた飛火野で二頭が仁王立ちして殴り合うショットがある。なぜサブタイトルに「楽園」と銘打った写真集に、わざわざ遣り合う写真を入れたのだろうか。百歩譲って、それが自然の営みのなかで起こった偶発的シーンであるならまだ分かる。しかし、このショットは明らかに人為的なものが介在した結果である。
そもそも、シカは霜の降りた芝など食べない。朝日が差し込んで、霜が溶けた日向の芝で朝食をとるのだ。さらに飛火野のような広いフィールドでは、シカは互いに距離をとって芝をはむので、めったにケンカは起こらない。白銀の飛火野でシカが殴り合うとき、それは撮影者がそこに餌をまいたときだけである。その餌をめぐってシカは争ったに違いない。
以上。もし、シカ写真というジャンルが確立されていくのなら、シカ写真家の次回作は以上の点が克服されるべきである。