ほんまかいなそーかいな@桜井。
所有するカメラの手ぶれ補正テスト(動画)のため、ノリで春日山に入っていたわけだが・・・まさか私が磨崖仏に興味を持ってしまうとはっ!
しかし、あまのじゃくな私が、ガイドブック的仏教美術をそのまま受け入れ、歴史のロマンに耽溺するわけがないことは、ならねこ読者のみなさんならすでに察しがついているだろう。むしろ、そういうものに牙を剥くのが森町スタイル(病気)なのだぁああああ。。。
石仏への関心が決定的なものになったのは、春日山の隣にある芳山の二面石仏の由来をめぐってである。この石仏は奈良時代説と鎌倉時代説がありながらも、論争や科学的検証もなく、今も尚ひっそりと頂上付近の林の中で佇んでいる。
芳山石仏の奈良時代説を唱えた人物は太田古朴である。地元では地蔵盆の地蔵となっていたのを彼が再発見したのだった。著書『大和の石仏』では、これが奈良時代のものである根拠として、
造形様式が「天平のムードを備えている」こと、
朱印が「奈良時代に主として見られる説法相である」こと
の二点を挙げている。
さらにこれを根拠にして、彼はこれに類似する新薬師寺の石仏も奈良時代のものだと推論する。実際に私も見てきたが、確かに似ていた。こんなことを言わないと絶対スルーしてしまうような場所にあるし、そこに行ってもまあコレ↓に注目はしないだろう。
この太田奈良説に異を唱えるのが久野健である。彼の著書『秘仏』11章「日本の石仏」では、芳山の石仏への言及を避けている。それどころか、他の著書では明確に奈良時代説を否定しているようだ。その根拠として
天平時代の様式が形式的で破綻していること、
奈良時代の技術ではこのような石細工は困難であること
を指摘している。
私は「ふーん、そっかー、いろんな意見があるもんだー」としか思っていなかった。しかーし、よくよく考えると、久野健の論考は奇妙である。なぜなら前出の『秘仏』において、彼は最古の石仏として桜井の石造浮彫伝薬師三尊像(アイキャッチの画像)を挙げているではないか。
これも奈良時代のものだとされるが、久野の論拠はそのまま桜井の石仏にも向けられて当然ではないか!
奈良時代、本当にこんな石工技術が当時存在したのだろうか?
石仏を屋内で安置する仏教文化が本当にあったのだろうか?
仮にこれを認めたとしても、
1200年もの間、ひび割れ一つ無い、完璧な保存状態を保つことなどが可能なのか?
etc・・・疑問はつきない。
さらに、日本最古の桜井の石仏は、文科省が指定する重要文化財でもある。では、この石仏の学術的価値を政府が保証しているかというと、実は全くそうじゃない。「重要文化財」というお墨付きはけっこう適当だったりする。
日経の記事には次のようにある。
関野貞は、工学部出身で、もともと平等院を建築学的に調査していた研究者だ。少なくとも当時の彼は、石仏どころか仏教美術の専門家ではなかったのである。そして現代、1世紀前の彼の考証を検証することもなく、そのまま鵜呑みにしている有様だ。
なんということだ! 私たちは理性の光がとどかない濃霧につつまれて生きているらしい。そんな神話で満足できるなら「カルトだ」と言われても仕方ない。ということで近日、実際に桜井の石位寺に行って、このミラクルすぎる石仏を実際に見てみて、そしてあらためてコメントしようぞ。
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