都築響一『圏外編集者』レビュー。
『圏外編集者』を私は紀伊國屋書店梅田店で買ったのだが、手に取った場所は、社会学のコーナーだった。フリーの編集者である著者は、自らが歩んできた過去や現在のマガジンの状況を語っていく。この意味で本書は一つのメディア論(史)として読むことができるだろう。
また、個人的には経営学・マーケティングのコーナーに置いても良いと思う。この圏外編集者のアプローチは、ある意味、マーケティングしないというマーケティング戦略論を展開しているからである。
マスメディアはなにかとアンケートを取りたがるけれど、それは読者との距離感がリアルじゃないからだろう。アンケートというのはようするに平均値で、多数決だ。いちばん多い意見に基づいて、次の記事や番組が作られていく。でも、いちばん多いのはいつも、いちばんつまらないって決まっている。多数決で負けるひとのために、僕は記事を作っているのだから。p. 243
この本は、読みやすく、しかも分かりやすい。著者の語り口は軽快だが、そこには持ち前の軽快なフットワークでサバイブしてきた者ならではの深みがある。でもねえ、若者よ、これを真に受けてはいけないぞw 今更おまえがマネしたってダメだから。
ババ様、雑誌はみんな死ぬの?
定めならね、従うしかないんだよ。
活字と写真だけでコンテンツが成立する時代は終わった。サブカルなんてググればタダでいろんな珍情報が手に入る。そんな時代で著者の猿まねをしても無駄無駄無駄。実際、この本のオチ、メルマガいいね、だもん、なんじゃそりゃ。
そう言えば、田舎の近鉄奈良駅ですら、広告ポスターは紙から液晶になった。液晶になるということは、写真という静止画である必然性がなくなったことを意味している。近い将来、ディスプレイは巻物やペーパーのように曲げられるようになるだろう。次世代の書物のなかのグラフィックは静止画である必要はない。
話を現在にもどそう。昔に比べれば、誰もが気軽に写真が撮れて、しかも簡単にシェアできるようになった。しかし動画に関してはそうではない。そのためのノウハウも確立されておらず、作り手独自のポリシーや哲学が必要になってくる。
そして恐らく、これが「次の圏外」への糸口になると思う。