「コモンズの悲劇」という悲劇。
“NEARBY COMMONS”は直訳すると、「近隣の共有地」となり、なにそれ?みたいになるんだけど、あえてこうネーミングした。ネットの世界でコモンズとは、ユーザー間で情報をシェアするための抽象的な場を指しており、あらためてこれを地理的な空間に帰着させたかったのです。つまるところ”NEARBY COMMONS”とは、近接した誰かと誰かが織りなす、地ベタなソーシャル・ネットワークだ。
ところで、コモンズという用語に関連して「コモンズの悲劇」「共有地の悲劇」とよばれる社会問題のモデルがあるのだけれど、、、私はこれがいまいちピンとこなかったりする。公共の牧草地はまさにフリーであるがゆえに、各酪農家たちが暴利を蝕んで家畜が牧草を食べまくる、その結果牧草が枯渇して、共有地が荒廃する。
はて、それがどうしたというのだ。それこそ経済学的に言えば、おそらく荒れ果てた牧草地を前に酪農家たちは死に絶えるだろう。その後に、牧草はまた生えて元にもどるだろう。そして、そこにまた新しい酪農家たちが出てきて・・・という循環がそこにある。世界は廻る。それだけのことだ。少なくともそれは悲劇でもなんでもない。また、酪農家がこの様な有様をリスクとして予期できる知性があるなら(ないのなら、なぜ彼は酪農家になれたのだろうか?)、彼らは分に応じて牧草地を棲み分けて、コモンズは一定の分配に均衡するにちがいない。
仮にそれが「囚人のジレンマ」的状況にあるとしても・・・いや、そもそも理論的にいっても囚人たちは「ジレンマ」なんか感じていない。それをジレンマと呼ぶのは、モデルの仮定を自ら反故にして、自家頓着に陥った学者サイドの矛盾に由来する。一見、マクロレベルででジレンマとよばれているこの状況は、各プレーヤーがリスクヘッジした結果もたされたものであり、これは個々人のリスク低減を保証したフェアで理想的な社会状況なのだ。やっぱりそこには悲劇なんかありっこ、ない。
別の観点から考えよう。どんな公園でも管理人がつきものでしょう? まあ南極大陸以外はそうです。2ちゃんねるにも当てはまる。削除人とかがいてちゃんと仕事しているから「便所の落書き」が維持できている。仮にコモンズが致命的に荒廃してしまったとする。ただし、それは社会問題というより、管理人のマネジメント手法の問題だろうね。それは社会学ではなく経営学の次元にあると思う。
そもそも、限られた資源の奪い合いという前提が、ラショナル・フールな世界観で満足していて、痛いね。もっと分かりやすくいうと「『椅子取りゲームで勝つためのせこい戦略』に溺れるんじゃなくて、もっと座りごこちの良い椅子をいっぱい増やしていけば、みんなこんなクソゲーしなくてすむのになー」って気付けへんのか?あほなの?しぬの?ってことだ。
コモンズの管理人は、これに関して繊細な舵取りをしなくちゃいけない。つまり、ユーザーたち自身がそこをよりリッチにしていくような仕組みをデザインすること、いわば「コモンズのゲーミフィケーション」こそマネジメント業務の中心となるだろう。「コモンズの悲劇」「共有地の悲劇」は、こーゆー観点なしにソリューションを考えてしてしまうところに、あるいは問題設定それ自体に、真の悲劇性があるんじゃないかしらん。