ぼくらの三箇日戦争@バブルが終わる頃。

 

タイトルは僕らの七日間戦争っていう映画のパロディです。
主人公は宮沢りえで、音楽は小室哲哉(TM)でした。
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でも、そのころの私は毎月の小遣いが500円の小学生で、宮沢りえなんか「おばさん」でしかありませんでした。その後、彼女がふんどし姿の写真集をだして世間がぎゃあぎゃあ騒いでも、おばはんがふんどしをして何がエロいんだって感じでした。

そういえば近所の古本屋でその写真集があったような。まだ見たことが無い。1000円以下なら買ってみよう。
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そんなバブルの末期、まだ京都市内にも駄菓子屋があって、その前でじーとしていると、同じ学校の年下の小学生達がビックリマンチョコを大人買い(といっても30円×10コ=300円くらいだけど)していて、おまけのキャラクターのシールだけを取り出して、肝心のお菓子をそっこー店先のドブに捨てているわけです。「あー、それ、くれへん?おなかすいてんねん」と恥も外聞もなく、私は知らん子からシールではなく、チョコの方を集めていたっけ。
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当時はジャンプの一人勝ちの時代で、キン肉マン、ドラゴンボール、バスタード、シティハンターが人気だった。あの画力の水準を考えれば、ビックリマンシールは所詮コロコロで、低学年向けのものだったハズ・・なんだけど、近所の中学生もみんなハマっていたなあ。
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当時の状況を知るには、大塚英志の『物語消費論』なんかが参考になる。でも、この頃の大塚英志ってキモかったし(今もか)、その内容も次から次へと沸いてくる社会現象の後追い評論でしかないわけで、当時の彼はぜんぜん評価されていなかったと思う。
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ポストモダン評論もそう。あれだって、その当時から空回りしていた。既存の枠組みと違うところでハイテクとエンターテイメントが結びついて、しかもそれが世界を席巻していくのは哲学者ではなくゲーム・クリエーターだったわけだし。浅田彰はゲーム理論しかできなかった。ナッシュ均衡に拘泥する時点で、それ、クソゲーでしょうよ。ゲームの本質はいかにパターンにはまらないで(均衡させない)でゲームをマンネリ化させないかが重要だからだ。

中沢新一のエッセイ「ゲームフリークはバグと戯れる」(『雪片曲線論』所収)は一読の価値はあると思うけど、その文章にクリエーター側がインスパイアされることはまずなかっただろう。所詮、当時のナムコの声を哲学風にパラフレーズしたに過ぎないからだ。
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そんな時代を知っている私が、いま、モンストをやっている。ビックリマン、女神転生、ポケモン・・・かつてのブームのいろんな面影をそこに見ることができる。だが、これらとモンストが決定的にに違う点があって、それはモンストは一見RPGなのに世界観や物語すら存在しないことだ。

むしろ、モンストはこの欠落した物語性を回復させること自体がゲームなのではあるまいか。そのためにもっさいキャラをまともに進化させて友人たちと戯れて「物語る」のだ。つまり、他人や知人とのコミュニケーション自体がゲームの物語となる。その意味でモンストはパズドラとも根本的に違う。

それは東浩紀が指摘したように、ゲーム内のデータベース化された空虚な記号をかてにして、プレーヤー同士が共にこれらをモノ語りしながら失われた物語を再構築していく、そのような消費文化が・・・なぁんて書いたら、さっき批判したはずのポエム評論になりそうので、もうお開きにしましょう。賀正。

結論:二日前にゲットしたアリエスをさらに進化させました。
なんやかんやで600円かかりました(爆)。

ん

 

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