マーケティングと唯物論。
最近のソニーは「ハイレゾ」規格でオーディオ分野での巻き返しを狙っている。だが、それだけではダメだろうね。これを考える為には、すでに神話と化したウォークマン伝説に今一度スポットライトを当てる必要がある。というのも、現在のソニー自身がこれを誤解しているからだ。
歴代のウォークマンを省みるとき、録音機能搭載の機種が存在していたことは見逃せない。ウォークマンは、機能をそぎ落とした再生専用機「だけ」ではなかったのだ。アーティストが提供する音楽は、録音機能によってマイクから入力された環境音一般とともに相対化される。それは芸術の解体を意味し、そしてユーザーの音楽をモノのように所有したい欲望と密接に関わっている。
まあ、要するに録音機能というものは頻繁に使うものではないけれど、それがあるだけで業務用っぽいし、なんとなく玄人っぽい。そこには芸術家のアウラを編集可能なデータとして聴く(支配する)という快楽?がある。録音機能はこのような唯物論的意味論を密かに奏でている。そして、これこそがカセットテープ時代のウォークマンの影の支柱だったと思う。
ソニーが昨年発売したICレコーダーであるPCM-D100は、もう一つのウォークマンだと言いたい。見た目のマニアックなデザインだけでなく、SDカードや多様な録音規格に対応している。ハイレゾという超音波級の音質と共に、カセットテープ時代にあった規格のオープンさや実用性をこの機種は継承している。しかしながら、ソニーによるとこれはウォークマンではなく、あくまでもICレコーダーなのだ。そしてスリムなICレコーダーが陳列された商品棚のなかで、このずんぐりむっくりしたD100は浮いている。嗚呼、無情。
つまり、今のソニーがしんどいのは、単純にこの機種を「ウォークマン」と呼べない大人の事情だったり、組織的なシガラミのせいなんだろうねえ。