観光における「点と線」。

 

日本人の美意識は「点」のパースに限定されている。
例えば、あなたと京都に観光に行ったとしよう。
あなたは目的地に着くやいなや三脚を設置し、構図をあれこれ考えて、カメラのシャッターを切る。
金閣寺、清水寺、嵐山・・・既視感のような美しい京都が記録されていく。
ガイドブックの写真を精巧に模倣できるのかを競うかのように、あなたはファインダーを覗くのだ。

しかし、これらは地図上の「点」からの視点でしかない。
それらは街の全体像のごく一部の視点である。

点から点への移動、つまりこれらをむすぶ「線」としての視角が日本人の美意識には存在しない。
河原町のパチンコ屋、ダサいデザインの市バス、無駄に多いスターバックス・・・
「線」としての京都は、実はお世辞にも洗練された街とはいえない。
だが、これらは私達の美意識の視野からは意図的にフレームアウトされる。
そして、美化された京都のイメージだけが採録され、メディア上に流通していくのである。

以前にも書いたが、日本人の観光感覚は中学生の修学旅行の域ををでていない。
観光バスで、とあるフォトジェニックな箱庭にアクセスするだけの旅。
移動中の観光バスの中では寝てるだけの旅。
日本人よオトナになろう。

こんなことをいうのは、外人とくに西欧の観光客にとって、
京都はがっかり観光都市の代表格だからだ。
彼らは京都を祇園の石畳やゼンガーデンの街だと思ってやってくる。
しかし、京都の実像はせいぜい「中途半端な大阪」でしかない。
灰色の中途半端なビルがひしめく近代都市のなかに、「点」としての祇園や寺が埋もれているにすぎない。

京都が観光都市であるためには、私たち日本人の美意識がそれほどグローバルなものでないということを認めるべきだ。
西洋人がもとめるのは、例えば金閣寺から清水寺まで移動する際の、窓を流れる伝統的な風情である。
点と点のあいだにある「線」へのパースペクティブに関心をよせる必要があるだろう。

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