おとうさんなるもの@夏休みアニメ特集。
夏休みです。ちょっとブログの趣旨をねじまげて、アニメの話でもしよーかしら。まあ、この数年アニメとか見てないので単なる昔話なんだけどね。
さんざん言われてきたことだけど、ドラゴンボールは「Z」になり、すなわち悟空に家族ができた時点で、気持ちの悪い物語になります。要するに、悟空は父親としてクソなんですね。
ヒステリックな教育ママに働かない父親。ある日、父は実の兄と口論から暴力沙汰に発展し、帰らぬ人となります。 さらに息子は異星人に拉致されます。なんという家庭崩壊っぷりでしょうw 悟空よ、世界の前に家族を救えよな。じゃあ、ドラゴンボールに父性は存在しなかったのかというと、そうでもない。初期ドラゴンボールの「父」は亀仙人だったと思います。
強いんだけど、威張らない。エロくて俗物なんだけど、要所ではグラサンの奥の瞳がキラリ☆と光る(頭では無い)。ドラゴンボールは「Z」でつまらなくなったのではなくて、悟空が亀仙人より強くなっちゃった時点で、物語はその支柱を失ったというべきでしょう。
こういう存在を「酔拳型父性」と呼ぶことにしよう。これは、宇宙戦艦大和の沖田艦長に象徴されるような、寡黙で威厳に満ちた父性に対するアンチテーゼでもあります。
余談だけど、ショーン・コネリーが扮するラミウス艦長もかっちょいい。またコネリーはインディージョーンズ3で風変わりな父親役をやりますね。そういう意味では、コネリーは二つの父性を演じた役者だと言えます。
さらに脱線ですが、私は所ジョージの面白さがよくわかりません。でも安定感のある人気がありますね。芸能界のポジショニングで「酔拳型父性」は希少価値が高いのかもしれません。所ジョージの気さくなおっさん性は、女性ウケがいいんですよ。タモリ論よりも所ジョージ論のほうが、大切なのかもしれません。
スラムダンクの安西先生も「酔拳型父性」のカテゴリーに入ります。
だけど、彼のキャラ設定には教え子の死が絡んでいて、それを考えるとちょっと重たいですね。いや、むしろ「酔拳型父性」の本質は死や罪を経由しないと到達できない境地なのかもしれません。
ガンダムのシャア・アズナブルは、最終的に痛々しいアダルトチルドレンとして死んでしまったけれど、エゥーゴ時代のシャア(クワトロ・バジーナ)は「酔拳型父性」を発揮していたと思います。やはり「ファースト」での罪がそうさせるのでしょうか。
父性の条件として、実子の有無は特に関係ない。また、年齢もこれの重要な要素ではない。要は、迷える者を導けるかどうかなわけです。ただしその導き方が、権威によるのか、それとも好奇心によるのかによって、この「おとうさんなるもの」の性質は大きく異なるでしょう。エゥーゴ時代のシャアは、スマートな好奇心で若者達を導いたと思います。
しかしその結果、エゥーゴのみんなが死んじゃったので、後の「逆襲のシャア」で彼は幼児退行を起こし、ええ歳したおっさんなのに中ニ病になります。
ああ、中ニ病といえばHEROの木村拓哉だと思うけど・・・すいません、そーゆーのは観てから文句いうべきですね。でも、成熟を拒みながら虚飾の若さで体裁を保とうとする彼のイメージは、そのまま現代の日本社会に当てはまると思います。