快楽計算今様@なぜ人はゲームにはまるのか。
「満足した豚であるよりかは、不満足な人間であるほうがよく、満足した愚か者であるよりかは、不満足なソクラテスであるほうがよい」
ダメです。ゲーム好きだったはずなのに、最近ゲームができないんです。チュートリアルで飽きてしまいます。ボタンを押すというより押せと命令されてるような気がしてなりません。ハマって、徹夜して、リアルで廃人になる。そーゆー感じのゲームがしたいんですけどねえ。あとブログ廃人ってあんまし聞かないけど、いると思うw
ま、それはそうと立命館大学がゲームの本質を考察した本を出しました。日本では小説家や映画監督が作家としてチヤホヤされるわりに、ゲームやアプリのクリエーターはいまだに評価が低いですね。転じて、ワンダの人みたいに妙に勘違いしちゃうのも出てきたりして・・・やっぱゲームやその作り手をちゃんと評価してあげないとダメですよ。そして、それはアカデミズムの仕事ですよ。
だから、ゲームの面白さの仕組みについて、単なるコーディングや産業論を超えて、大学屋さんが歴史的・哲学的に考えることは大切だと思う。私はこういう本が出版されることは大歓迎なんです。・・・そんでね、その上でいいたいんだけど、この本、内容が薄くないかー? 今どきの大学生ならこんな感じでいいのかなあ。ちなみにMITの『ルールズ・オブ・プレイ』ですらイマイチだと思っています。だってワタクシ、不満足な人間でありたいんだもの。
例えば、この本では、『スペース・インベーダー』がちょろっと紹介されているんだけど、既存のゲームがブロックとかボールの世界だったのに対して、ブロックの代わりにエイリアンが出てきてゲーム世界が物語性を獲得した・・・って書いてある。たしかに中沢新一もそういうこと書いているし、間違いではないけれど、インベーダーは今やっても、フツーにめっちゃ面白いんですよ。それが何なのかを説明しないといけないのに、この本では過去の遺物扱いですね。しかもPS2の画面つかってるよこの筆者たち・・・愛がないよ愛がっ! 『ゼビウス』にはちょっと愛があるっぽい。あと、マズローの欲求階層理論の話とか、そんなんどーでもいいですよ。
『スペース・インベーダー』が持つ時代を超えた面白さはどこにあるのか? それは次の点にある。
「狙う・打つ・避ける」という基本原則。
連射が出来ないので、必然的にシューティングの基本原則に忠実になるわけです。ゲーム序盤は敵が多いので適当に打っても当たるんですね。でも敵が少なくなると、意識的にターゲットに狙いを定める必要がでてくる。そして、標的をロックオンしようとすると視線が上にいっちゃうので(縦画面だから)、今度は敵の弾を避けるのが疎かになる。この意味で「狙う・打つ・避ける」が絡み合った絶妙なゲーム・バランスになっている。また、ミスっても「ああ、おいらの不注意だった!」って感じで終わるので理不尽さがない。だから、また100円を入れてチャレンジしたくなる。
BGMがゲーム状況とシンクロする。
あの「ブ、ブ、ブ」って音、映画の「ジョーズ」の「だぁだん、だーだん、だーだん」を参考にしたそうです。インベーダーが近づくと、その鼓動が早くなる。それで必要以上に焦ってしまう。スーマリのタイム100秒切ったときのBGMもそうですね。とあるエミュでやると音がでないんですが、面白が半減してしまいます。ゲーム状況と音がテンポで連動する、これこそゲームミュージックですよ。レベル50の勇者が初期のスライムに遭遇しても、やたら緊迫感のあるBGMが流れますが、最近のクリエーターはアホなんじゃないかと思うね。
ビットマップの美学。
当時、まだスプライトはなかった。この後、ナムコがスプライトを使ってギャラクシアンを出すわけです。そしてシューティングは演出至上主義に偏重していく。でもインベーダーだって、ビットマップ故に、砦?の細粒感ある綻びが美しい。そこにわびさびがある。このゲームは砦の崩壊を愛でるゲームなんじゃないか。インベーダーを一掃しても街は灰燼と化すような虚無がそこにある。ファミコンのインベーダーはスプライトで描いているので、砦崩壊の細粒感はないですね。スプライトやポリゴンじゃなくて、今でもビットマップを活かしたゲームを考えてもいいんじゃないかなあ。
インベーダーは意外とカワイイ。
こういうゲーム、もしアメリカ人が作っていたら、インベーダーのデザインはおどろおどろしい存在として一貫させると思うんです。でも、実際、タイトル画面のインベーダーはコミカルで愛嬌ある行動をとりますね。もはやゲーム内の物語世界とは独立した、マスコット的な記号表現がなされている。記号の帝国、日本の成せる業だと思います。