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第三空間のタイプ。

 

レイ・オルデンバーグっていう都市社会学者曰く、「第一に家、第二に職場、それだけ。街にはそれしかない。アメリカ終わってるやん。カフェとか居酒屋とか他人同士が愉しく過ごせる第三の場所、サードプレイスが必要やん!」

・・・だそうです。そう言ってしまうと、人が集まる場所なら何でもかんでもサードプレイスになりそうなんですけどねえ。

個人的に居酒屋はサードプレイスと見なしたくないです。例えば、私みたいな酒を飲まない人は仲間ハズレになるじゃないですか。そもそも、アルコールが入ると非日常的なノリでわいわいガヤガヤやっているだけで、それは何か浮き足立った集いだと思います。やっぱり都市空間の要は昼間のカフェですよ。

これに関してですが、冒頭の写真の英語版と日本語訳版の表紙の対比が、そのまま日米間の「サードプレイス」解釈のズレを象徴しています。まずオリジナルの表紙に注目してみると、お洒落そうなカフェに老若男女が集っていて、その表情はわかんなくてもなんか幸せそうでしょ?

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対して日本語訳版は、くたびれたおっさん連中が、小汚い下町の立ち飲み屋で何かごそごそやってるw わざわざこんな写真つかうなよ・・・。否、ってゆーか、いざ探してみると日本にはまともなサードプレイスはないのかも。ええと、メイド喫茶はサードプレイスなんだろうか? キャバクラがサードプレイスではないように、メイド喫茶もそうではない。あくまでも、そこにある関係性はお金がすべてです。

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さらに言えばスタバもサードプレイスではない。スタバのお姉さんは愛想良く「こんにちは!」と言ってくれるけれど、何百回通っても機械的にそう言うw マニュアルの笑顔です。そういう意味ではメイド喫茶と一緒かも。そこには店員や顧客間の対話なんて存在しない。じゃあ、人間的なあまりに人間的なカフェがあるのかというと、あるよ。大阪中崎町とか奈良のならまちにふつーにある。これこそあの街の魅力なんだと思う。

また機会があれば紹介していこうかな。

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ぱらのいあ、ぱららっくす。

 

どんなに美味しい珈琲を深夜に飲んだって、自分でも「はっ」とするような良いアイデアが頭に浮かんだ試しなどないじゃないか。徹夜はダメなんだよ。むしろ、そこは甘ったるい梅酒を二口飲んで、だららんと10時半にベッドに潜り込み、「はっ」と目が覚めたら窓はまだ薄暗く、うへぇめっちゃ寒いやん紅茶でも飲みたいやん・・・ねえ紅茶入れてよハニーって思ったらハニーは夢の中やったわーい、しかもティーパックも切れているやないか!だらー!

亀池の主「むにゃむにゃ」。
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ちぇ、コンビニいくか、という次第で奈良公園あたりを散歩しているまさにその時にこそ、良いアイデアが浮かんだり、これまで考えてきたことの整理ができたりするものです。こんな単純なことをなぜ強調しないといけないのかっつーと、往々にして早朝のクリエイティブ・テンションは記憶に残りにくいという点があるからです。その日の昼頃になれば、そういえば朝、なんかいいアイデア浮かんだんだけど、それがなんだったのかは思い出せねー、ってなるんです。たぶんそれは偶然ではなくて、脳の中でアイデアが活性化しているとき、記憶を司る海馬がまだ寝ぼけているからなんでしょうねえ。

古の森の王「ふむ、ワシになんのようじゃ」(ダクソ風)。
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ででで、おいらはここに書き留めておくわけですよ。かねてから私は、社会学者スタンレイ・ミルグラムの「親しい他人」The Familliar Strangerという概念に関心があって、これは新しいソーシャル・ネットワーク・サービスを考える際にヒントの一つになると考えていました。ミルグラム曰く「朝の駅のホームとか、他人だけど顔を知っている人たちがいるよねえ」。私としては、次世代のSNSはこーゆー「親しい他人」とコミュニケーションができるメディアなんだと思うのね。ただ厳密には、ミルグラムの定義だけではダメなんじゃないかしらん。

ミルグラムの「親しい他人」は、慣習の産物だと言える。同じ時間、同じ場所に、何度も出くわすことによって、他人だけど「親しさ」が生まれるのだ。この意味でオリジナルの「親しい他人」は「慣習型」だと言える。

私は慣習型の「親しい他人」概念をさらに拡張して、他のパターンを探りたいと思ふ。これすなわちFamilliar Stranger 2.0 なり。特段、時間がかからなくても、私たちは常に「親しい他人」モードに入る機会に開かれているではないか。

例えば、千日前のジュンク堂はNMB48のファンが集っているが「●●ちゃん押しの人、集まれ!」的なノリで、年齢や社会的立場の異なる他人同士が即興的につながっているあの光景、これもまた親しい他人達の集いではないか。つまり、何らかの思想を共有していれば(そしてそれがマイナーな存在であればあるほど強力な紐帯を形成する)、そこでは慣習的な時間は特に必要としない。

上述の例は、内面的な思想に関わるものだったが、もっとドライな繋がりもある。これも先のNMBオタクの別行動で説明可能だ。彼らはアイドルのブロマイドを交換しあったりするわけだけど、あれは沈黙交易の現代版としか言いようがない。私が欲しいものを彼が持っていて、彼がほしいものを私が持っている。取引相手をどうやって見つけるのかは既存のSNSを使ったりとか結構ぐずっているようだ。もしこれを支援するような近接通信型のSNSアプリがあれば?どうなるんだろう? Fire Chatではダメだ。あれは文字ベースだし他人の評価ができない。だから、あれは単細胞な集合体しか生み出さないし、結局のところ暴動しか起こせないんだよw

最後に、非対称な繋がりのパターンがある。それは「慈悲」だ。コミュニケーションは対話者の対称性が基本となっているけれど、非対称なコミュニケーションも重要だと思う。「困っている人に手を差し出す」というモラルは、立場の壁を越えた繋がりを産みだすパワーを持っているからだ。3.11の時、どーして赤十字なんかに寄付してしまったんだろう。もっと事情がある家族に直接お金を渡したかった、と思った人は多いはずだ。みんな寄付はするけれど、それがちゃんと使われたのかどうかをモニタリングしている人は少ない。だから火事場の詐欺が横行する。しかも政府ぐるみでね。こういう問題も次世代SNSが担うテーマだと思う。

まとめておこう、一般的に「親しい他人」は慣習的な長い時間を経て生み出される人間関係だが、ある条件を満たせば即興的にこれが形成されることがある。その条件とは、

・内面的な思想共有
・合理的な取引行為への誘因
・慈悲に根ざした施し

である。こういったことはすでにインターネット上で常態化しているようなコミュニケーションだ。これ自体は新しいことではない。しかし、これがWeb上の遠隔コミュニケーションではなく、地理的にも近傍Nerbyで繰り広げる情報空間Commonsで繰り広げられたら? あちきはここに新しいコミュニケーションの可能性があると思うのね。最近「Nearby Commonsって何ですか」って聞かれることがあるんだけど、それはねえ、「親しい他人」をめぐる実存哲学と社会実験と情報工学の交錯点なんだにゃー。にゃ? Near!

お宝ハッケーン!!の眼差し。
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photo: OLYMPUS E-P5, 75mm F1.8

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網状資本論1@マルクス。

 

剰余価値説とは、周知の通りカール・マルクスの『資本論』で扱われた概念である。これのモチーフは、マルクスが亡命したイギリスの縫製工場だと言われている。そこでは、労働者たちが一律にミシンで黙々とジャケットと作っていた。まるで彼ら自身が縫製機械の一つの歯車であるかのように。

ミシン(マシーン)と人間が一体となった新しい労働環境を前にして、マルクスは労働を定量化できると考えた。そしてこれこそが資本の源泉だと見なすのである。

けだし、労働が計算できるという発想自体は、いわゆる「マルクス経済学」の十八番だが、実は後のアメリカ経営学のそれにも近い。マルクスは科学的管理法を先取りしていたと言える。だがいずれにせよ、このような前提のもとで些末な剰余価値論を詮索しても、それはありきたりで退屈なものとなるだろう。

本来、マルクスの魅力は、価値の神秘性を捉えようとした点にあった。確かに当時の感覚からすれば、均質で機械化した労働は新鮮だったに違いない。ただし今となっては、それは目新しいことではない。

むしろ重要なのは、そのような労働環境が整えられるきっかけとなった産業革命である。価値の神秘性は産業革命の成立条件に潜んでいる。

イギリスの産業革命は、膨大な富がこの国に一極集中したからこそ達成できた。そして、それは重層化した三角貿易と関係が深い。しかもそれらが扱う商品は極めて特殊だった。奴隷とアヘンである。

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http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/21.html
http://mrgrayhistory.wikispaces.com/UNIT+13+-+THE+AGE+OF+EXPLORATION

奴隷について。マルクスは労働者の富の搾取可能性を説いたが、労働者以前の労働者=奴隷については何も語らなかった。だが三角貿易が示すように、資本(剰余価値)の本質は、労働という商品ではなく、人間そのものを商品化するところにある。マシーン化した人間こそ最大の剰余価値を生むのだ。最新の人工知能を実装したアンドロイドを製造するよりも、生身の人間を機械のように教育する方が安上がりであるように、現代でもより巧妙な奴隷産業が蔓延っている。

アヘンについて。いかなる経済理論においても、ある商品の効用や使用価値はゼロかそれ以上だと想定される。しかし、麻薬の価値は、使用した瞬間の快楽は無限大でその効用は最大となり、しかし長期的には体を蝕むので効用はマイナスとなる。酒もその部類に入るが、酒の製造にはノウハウを含めた高い製造コストを伴うこと、使用価値の振れ幅は麻薬ほど大きくないことから、酒はまだ通常型の商品だと言える。

アヘンで辛酸をなめた中国がいちばん良く知っているように、麻薬は買い手にとって不思議な薬草でしかないが、売り手にとっては最終的にその国そのものを滅ぼす兵器なのだ。

マルクスが扱った剰余価値はあくまでも産業革命後の労働システムに限定されたものだった。しかし、そもそもこれを可能にしたものは、国境を越えた交易ネットワークをめぐる、価値の特異点とも言うべき奴隷と麻薬だったのだ。これらの方が資本の不気味な本質に迫っているように思われる。

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ショボーン日記@神戸三宮。

 

今日は一日家でごろごろして過ごそうかなーと思って、パソコンで神保&宮台のビデオニュースみてたら、映画アクト・オブ・キリングの話をしていて、わあ、なんか面白そう、これみたいかも、カチャカチャ、クリック、クリックふむぬむ、なにぃこれ関西だと神戸元町しかやってへんのかい、んーでもプログラミング肩凝るし現実逃避かねて行こうかなっつーことで奈良から元町映画館をはるばる近鉄で目指してさー、電車の中でしょうだ氏の『はじめてのJavaScript』を読んでいて、やっとイベントリスナのthisとeventの違いわかったわーい、サイ本ちゃんと書いとけあほー、ところでさ、JavaScriptの+記号ってクリプキのプラス・クワス問題を思い起こさせるよね、ん?おいらだけ?、だって1 + ” ”  = “1” なんだぜ、なんだよそれって感じじゃん、んでさ神戸着いたら、時間まちがえてて映画見れなかったのー、なーむーショボーンって仏のくせに落ち込むなや!などとツッコミをいれつつ、しかしまー、相変わらずそごう、人おらへんなwwなあんて思って歩いてたらセンター街にユーハイム本店があって、苦し紛れにビフカツサンド食べたわーい、ってケーキ屋でビフカツ食うなよっていわれてもさー、だって美味かったモン、くまモンは美味しいのかなあ、あそうそう帰りに難波の古本屋天牛堺書店で望月照彦の『マチノロジー』(1977年)を1058円でゲットだぜい、最近おいらが考えてることと同じだったよ、んんんでもそれって良いこと?悪いこと?

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空間系とネットワーク系@ならねこ・すくーる。

 

社会関係は、空間系とネットワーク系の交錯として見ることができる。つまり人間関係における「親しさ」は単に空間的な「近さ/遠さ」(nearby/distant)だけでなく、ネットワーク的な「近さ/遠さ」からも見なくてはならない。例えば、以下のA、B、Cの間柄において、Aから見て空間的に近いのはBだが、ネットワーク的に近いのはCだ。
プレゼンテーション3

空間系とネットワーク系は独立しており、両者は直交させることができる。例えば「空間的に遠く、ネットワーク的に近い」関係は「遠距離恋愛」(long distance relationship)となる。

空間系・網状系_pptx

さらなる分類のために、三つ目の次元として「時間」を加える。テーブルにおいて類型化された諸項目は「離散的/連続的」(discrete/continuous)に細分化することができる。括弧内の”D”と”C”はこれのイニシャルである。