ピエリ守山はこの先生(ry@滋賀。

 

あのピエリ守山が復活した。ここから眺める琵琶湖が絶景らしい。誰もいないショッピングモールで琵琶湖を眺めるなんて、めっちゃステキやん。いつかキミとピエリ守山・・・なんて思っていたら閉店がらがらー、そんでもって昨日復活して初日5万人いらっしゃいましたんだってよ。

Cursor_と_ピエリ守山「廃虚」から再生なるか ネットで話題、初日にぎわう___京都新聞

店舗構成を見てみる。ふむ、ここは自動車でしかこれない場所なのに子供向けのブランドが多いな。さて、ほんまに大丈夫なんだろうか。

Cursor_と_フロアガイド___ピエリ守山

温泉+アウトレット+ポケモン(ジバニャン?)の組み合わせのほうが滋賀県民にはウケたかもね。あえて公式HPの地図を引用するけれど、おごと温泉に近いんだね。で、最近の雄琴もイメチェンを図っているそうな。

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雄琴までくるエロおっさん連中をターゲットにした、滋賀の地酒バーみたいなものがあってもヨカッタかもしれない。或いはまっとうな温泉街として復活しつつあるなら、守山は滋賀県民以外の集客を期待できたはずだ。
Cursor_と_【若手記者が行く】「特殊浴場と共存」は昔の話、旅館2代目たちが「脱風俗」のイメージチェンジに奮闘する「おごと温泉」の“今”(1_4ページ)_-_産経WEST

余談だけど、WEARというファッションアプリが流行っている。なぜか? もはやファッションは通販が主流だからだ。そして現在、東京と地方のファッション格差はゼロになっている。全国の若者達は、ZOZO化したモードの体系のなかでフラットにつながれる。であるからして、GUとかH&Mなんか今更リアル店舗で買うもんなの? まあ、おじさん、その辺わかんないけどさ。

「クリーンな廃墟」という呼称は、なにもピエリ守山だけのものではない。そもそも何処にでもあるようなチェーン店でしか構成できないモールがすでに「クリーンな廃墟」なのではないか?

オーサカ・ファスト風土:三越伊勢丹縮小化ざっかん。

 
 
大阪キタの百貨店チキンレースに決着がついた。三越伊勢丹が売り場面積を半分以上も縮小させ、さらに暖簾すら変えてしまうかもしれない。おそらく幹部はこう言いたいのだろう。「ケチな大阪人に高級志向はムリだ、もっと安くて庶民的な店にしよう」。で、「あっちの大丸は東急ハンズとユニクロだから、よし、こっちはロフトとH&Mで勝負だ!どん」みたいなことをするのだろうか。もしそうならアホかと。大阪駅で今度は安モンのチキンレースが始まるだけだ。そのうち大阪駅にアウトレットモールが出来たりしてw ゼロ年代「ファスト風土化」は地方や郊外の問題だった。イチゼロの現在、それが東京や大阪のど真ん中で起こり始めている。
 

断言しよう。三越伊勢丹が負けたのではない。百貨店というビジネスモデルが崩壊しただけなのだ。高級「感」は演出するけれど本当は大衆向け、という百貨店の方法論はもはや通用しない。それ、もうバレてるから。第一、そんな都合の良い大衆は、もう、いないから。

ってゆーか、三越伊勢丹さん、あんた全然「高級」じゃなかったよ。数十万円のスーツや貴金属などの超非効率的な商品を扱って、浪費文化を煽ってる商売人が、B級タレント雇って「節電しましょ、冷暖房がまんしてね」っておかしくないか。それは自分自身の存在根拠と矛盾したメッセージを発信しているわけで、そんな胡散臭い場所にインテリは寄りつきません。3.11直後ですらギラギラと眩しい看板消さなかったパチンコ屋の方が、下品だけどまだ正直だったと思うな。あ、これ、三越伊勢丹だけじゃなくて、百貨店全般の話ね。ユニクロ入れて「百貨店」を辞めた大丸が潔いだけです。

もし本当にエネルギー問題を憂慮しているなら、屋上にソーラーパネルを設置して、自家発電システムを構築したらどうだろう。でも彼らは金のかかることはしない。内情は火の車だからw 実質的な企業努力を何もしないで、てめえの光熱費をちょろまかすためだけに、やれ「地球温暖化だ、ニッポン国のエネルギー危機だ」と痛いセカイ系の妄言をほざいているから、大金持ちや本物のセレブからそっぽを向かれちゃうんですよっと。

倫理的に云々のみならず、単純に商人としてバカなんだ。百貨店に秋物が入るのは9月です。でも館内は暑くて試着する気も起こらない。ね、バカでしょ? 金に汚いという傲慢さだけでなく、自分のクビを絞めていることにすら気付いていないアホさがある。あと、なぜいまだに試着室が鏡なのだろう。この国ってハイテク無いの? 液晶ディスプレイで顧客の後ろ姿も「鏡のように」見せるのも接客だと思うのだが。どこのブランドも試着室はユニクロレベルですw もう5年以上前に、アメリカのジーンズショップでそういうのあったんだけどなあ。結局、プレタポルテなんてその程度の仕立てでしかないし、店員もいまいち教養と知識がない。

まあ、だからといって、オートクチュールはこれまた極論で、本当の金持ちはもっと保守的だ。2014年に「2006A/Wに買ったこのジャケット、すごく気に入ってるんだけど、全く同じヤツの新品を売ってよ」という、そういう金に糸目をつけない顧客のワガママに対応できるのが、ホントの高級志向ってもんですよ。もちろん、過去をアーカイブ化しているだけではダメで、次期iPhone6のモックアップが展示してあるようなワクワク感も欲しい。でも、今の百貨店には過去も未来もないね。

年明け。いつもはツンツンしているアパレル店員のお姉さん達が、セールだとデパ地下の総菜屋のおばちゃんみたいに「残りわずかですよっ!!!20%から50%オフですぅー!!!!」って絶叫している、あのザマを見て、いや、最初から正直な値段で売れよなあ。。。とゲンナリするんだが。

 

もっと言おうか。JR大阪駅のデザインが気にいらん。雑だ。ホームの時計や電光掲示板の柱が、以前の鉄骨をぶった切って、白いペンキ塗って、ハイ一丁上がり!と放置されている。おいおい嘘だろ、いつ工事すんだよと思ってたら、未だに放置されているので、どうやらマジだったようだw  天井の鉄筋もボルトが剥きだしで、遠目からはゴージャスだけど、細部が粗雑でやるならちゃんとやれと言いたい。

この駅の設計者はユーザー(歩行者)目線のパースを何も考えていない。まさに実質を伴わない上っ面なバブル指向をそのまま具現化した建築じゃないか。最後に話は東京に飛ぶけど、オリンピック会場のあのUFOも、ストリートビュー目線で考えれば、その是非は自明じゃないか?

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JR大阪三越伊勢丹、売り場面積半減へ 販売不振
専門店導入、15年初めに改装開業
2014/1/21 10:06日本経済新聞 電子版

西日本旅客鉄道(JR西日本)と三越伊勢丹ホールディングス(HD)は共同運営する百貨店「JR大阪三越伊勢丹」(大阪市)について、売り場面積を現在の半分以下に縮小する方針を固めた。販売不振で赤字が続いているためで、専門店を導入して2015年初めに改装開業する。大阪では百貨店の開業・増床ラッシュで競合が激化しており、各社の優勝劣敗が鮮明になってきた。

1980 ( 2013 ) :
『ここは退屈迎えに来て』と『なんとなく、クリスタル』

 

amazonのレビューに、『ここは退屈迎えに来て』は平成版『なんとなく、クリスタル』である、という評がある。なるほど確かに、山内マリコ氏の『ここは退屈迎えに来て』は、1980年に田中康夫が著した『なんとなく、クリスタル』を連想させるものがある。『なんクリ』が東京の新興貴族大学生のリア充体験記だとすれば、『ここは退屈』はさえない平民階級がファスト風土という奈落で悶える獄中日記といえるかもしれない。実際、私もそう思ったのだが、しかし今日、改めて『なんクリ』読み直したらそうでもないかな、とも思った。『なんクリ』の主人公、モデル兼女子大生の由利のおばはんクサイのセレブ言動が、かえって「おまえ必死やん」という突っ込みをいれずにおけなかったからだ。まあ、それは作者の確信犯的文体でもあるんだからまーしゃあないとしても、由利の彼氏は確実にダメだ。彼のセリフや描写からしてどうもアホっぽい。作者の意図に反して、彼はイタい男だと思う。彼はミュージシャンで、ジャンルは流行のフュージョンで、学生なのに秋田にツアーで演奏していて…という設定でカッコよさを(作者が)PRするのだが、すでにその肩書き弁慶さ加減が可哀想な男だなあ、と哀れんでしまう。

1980年ぐらいの東京。物語の登場人物達はスペースインベーダーも沢田研二も知らない。貴族なので認識できない。うそつけ。おまえら知らんフリをすんなや、と私。実はスペースインベーダーに病的にはまっていて、アメ横のゲーセンでばれないようにスタジャンに変装して半日興じているんだろ。正直にいえ。やい彼氏、おまえも本当は風呂では「トーキーオっ!」てバカみたいに独りカラオケしてるはずだ。同棲して、それができなくなったストレスで他の相手とSEXしちゃうんだよ、ああバカだねえ。そういうのを抑圧して隠す。浮気は認めるけど、風呂で「TOKIO」歌ってることは極秘事項なのだ。東京はクリスタルでないといけないんだよねえ。まったく、おまえら必死やん。

ラストシーンにて。主人公の由利は街中でふと10年後を思う。30歳になってもシャネルの似合うモデルをやっていたいな。もちろん彼氏も音楽家として大成功して、ほんでもって二人幸せな夫婦になれたらいいな、と。いやー無理でしょうね。おまえみたいなイヤミな女、25なったらポイやで。芸能界なめんなよ。男の方もボンボンなだけでアホだし、そもそもフュージョンって、ただのピコピコシンセやろ。その後、食い扶持もとめてファミコンの音楽でもつくるんかなあ。なんとなく、暗雲たちこめてません?というように、『なんクリ』は世間で言われるほど、バブリーでノー天気な小説ではないです。ま、80年代以降の東京の沸騰と荒廃の両方を予見しているという意味で、重要な作品であることには変わりないですけどね。

そして、2013年の『ここは退屈』。こちらは群像劇ですが、その中の一人に、25歳を前にして芸能界を引退し、地方のスタバでバイトしてる女性が出てきます。ドイナカでのたうち回る彼女のコミカルな悲哀は、まさしく『なんクリ』の見たくない後日譚といえるのかもしれません。そういう意味では両者は対照的なのですが、しかし、注意すべきはタイトル『ここは退屈…』の「ここ」とは、地方のことを指しているのではない。だって、あこがれの東京もなんにも無かったのだから。この作品が3.11以後のものであることも見逃せない。震災で東京のもろさがフィジカル面とシステム面の両方で露呈してしまった。東京もまた「退屈」な場所なのです。実際、3.11を契機に実家に帰ってきた女性のエピソードもでてきます。田舎もだめ、東京もだめ、帰ってきたけどやっぱ無理。ん海外?アメリカとか?あの国いうほど自由の国ちゃうでー、田舎の人種差別きっついでー、茶髪のジャップなんて、you薄ら笑いやでー、という救いのなさ。ああ、この絶望に出口なんてないのだ。そう、「ここ」とは「出口がないということを知ってしまうことへの絶望」なのです。

そういえば、そんな映画がありました。『キングイズアライヴ』は砂漠のど真ん中で助けを待っているんですが、みんな気が狂って「リア王」を演じ始めるというヘンな映画です。でも私は『キューブ』よりこっちのほうが好きなんですね。だって『キューブ』は出口があることをみんな知っているわけです。それは希望です。とりあえずその出口を探してがんばれますね。まあ死んじゃうけど。『キングイズアライブ』は出口を探さない。そもそもないんだから。で、「リア王」やる(笑)。『ここは退屈』も田舎のファスト風土という砂漠に埋もれていくか、夢の防壁で自我を狂気な次元で維持するかの二者択一を迫られます。もうそれ自体が無間地獄なのですが。。。こういう物語は悲劇だか喜劇だかわかんないですね。だがそれがいい。私自身は第三の道があるんじゃないかと思いますけどねえ。でも、それを安易に描かなかったところがこの作品を傑作たらしめているんじゃないかな。

ショッピングセンターという廃虚。

 

そして誰もいなくなった・・・たった数年で急速過疎化。滋賀県最大級のショッピングモール「ピエリ守山」

ファスト風土からクリーンな廃虚へ。
たった5年でこの惨状。何があったんだ。
商店街を滅ぼしたショッピングセンターですらシャッター街になるという現実がここにある。

「琵琶湖大橋が有料であるかぎり、この施設がどうにかなる要素欠片も無いと思うんだが」という意見も。

しかし、これは滋賀県の守山だけの話なのだろうか?
もはやどこにでもあるような大量生産品は、通販でよいと思うし事実そうなっている。
つまりそれだけ、日本の流通はマイクロ化しているのだ。

『下妻物語』の街並み。

 

「この街の人間は完全に狂っています」

首都圏の辺境、下妻。ここの住民がまとう衣服は、ジャスコというユニ・フォームである。

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ジャスコライゼーション=コスパ至上資本主義が地方を飲み込んでいく。ジャスコライゼーションへの退落は、画一的な共産主義を帰結する。また、それは一元的欲望に反射的に反応する理論(新古典派経済学)の具現化でもある。

この作品は、単にハイファッションという大上段から、「ファスト風土化」を小馬鹿にしているのではない。高級ブランド市場も風刺の対象になっている。尼崎商店街で「フランス製のヴェルサーチ」に群がるおばちゃん達は、愚かな消費者なのだろうか。そうかもしれないが、しかし、それは「本物を見極められない」という類の愚かさとは別次元のものだ。

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記号の記号による記号のための消費社会。ゼロ・カロリーのコークを飲むとき、それは「コーク」という記号そのものを飲んでいる。耐えられない軽さ、否それすらない空虚な浮遊感。コスパ至上資本主義とは別に、机上のポストモダン消費社会論の実体化がここにある。そこでは「本物/偽物」の区分すら無効となる。これに関して、小説版『下妻物語』のいちごの台詞が象徴的だ。

「うん、お前のいってることは解るよ。これが本物のベルサーチと全く無縁の商品だってことは、ちゃんと解ってるよ。でもさ、思わないか。たとえ偽物でもさ、お前のオヤジはベルサーチの商品を作りたいと思って、そのロゴとマークを使ったわけだろ。それならそれはベルサーチの商品として認めていいんじゃないか。そりゃ、素材とかさ、そんなものは本物より安く売る為に悪いものを使っているかもしれないけどさ、肝心なのはそういうところにないと、あたいは何となく思うんだ。上手くいえないけどさ、要は、心意気よ。心意気さえベルサーチならさ、偽物も本物も変わりはないよ」(pp. 84-85)

ジャスコライズされた下妻市民とヴェルサーチの「心意気」に群がる尼崎市民との距離はそれほど遠くはない。いずれにせよ、彼らはレディメイドの息苦しい消費コードのなかであがいている。「選択」を与えられるために、よだれを垂らし口をあけているのも同然だ。そこで、私たちはタイラー・ダーデンの声を聞くことになる。

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「この街の人間は完全に狂っています」

だから? 『ファイト・クラブ』の主人公のように、空虚な記号でまみれたリビングを焼き払う? あるいは・・・。映画『下妻物語』は、あくまでも東京郊外の風刺だった。ゼロ年代半ばまでは、まだ自虐的にこれを嗤うことができたのだ。しかしイチゼロの今、この病は中心市街地で起こり始めている。

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2014.2.04改訂