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80年代は懐古でもリバイバルでもなく、ひとつの原理である。

 

モンストのボスを攻略するときの、

「あとひといき」以降のBGMが好きです。

どこかで聞いたことがあるような・・・

これ、リズムは1989年の「バーニングフォース」だよねえ。

 

00:40〜

X68k版

ゲームはまあ普通だったけれど、音楽は最高だったなあ。

90年代はX68000の音源で聞いていたっけ。

当時はネットでダウンロードできなかったから、

大阪日本橋のジャンク屋の店主に

菓子折をもっていってコピーさせてもらったんだ。

(ゲームではなく、内部音源用のコードをね)

・・・あれから25年。

いろいろと便利になった時代だけど、

いまはストレートなカッコ良さがないよね。

ゲームもアニメもなんかゆるい。

消費社会自体が、ゆるゆる、だらだらしている。

こんなブログ書いておいて言うのもアレだけど、

80年代賛美は単なるおっさんの懐古ではないぞ。

そこには失われたひとつの原理があると思う。

素直にカッコ良いという原理が。

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ぼくらの三箇日戦争@バブルが終わる頃。

 

タイトルは僕らの七日間戦争っていう映画のパロディです。
主人公は宮沢りえで、音楽は小室哲哉(TM)でした。
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でも、そのころの私は毎月の小遣いが500円の小学生で、宮沢りえなんか「おばさん」でしかありませんでした。その後、彼女がふんどし姿の写真集をだして世間がぎゃあぎゃあ騒いでも、おばはんがふんどしをして何がエロいんだって感じでした。

そういえば近所の古本屋でその写真集があったような。まだ見たことが無い。1000円以下なら買ってみよう。
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そんなバブルの末期、まだ京都市内にも駄菓子屋があって、その前でじーとしていると、同じ学校の年下の小学生達がビックリマンチョコを大人買い(といっても30円×10コ=300円くらいだけど)していて、おまけのキャラクターのシールだけを取り出して、肝心のお菓子をそっこー店先のドブに捨てているわけです。「あー、それ、くれへん?おなかすいてんねん」と恥も外聞もなく、私は知らん子からシールではなく、チョコの方を集めていたっけ。
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当時はジャンプの一人勝ちの時代で、キン肉マン、ドラゴンボール、バスタード、シティハンターが人気だった。あの画力の水準を考えれば、ビックリマンシールは所詮コロコロで、低学年向けのものだったハズ・・なんだけど、近所の中学生もみんなハマっていたなあ。
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当時の状況を知るには、大塚英志の『物語消費論』なんかが参考になる。でも、この頃の大塚英志ってキモかったし(今もか)、その内容も次から次へと沸いてくる社会現象の後追い評論でしかないわけで、当時の彼はぜんぜん評価されていなかったと思う。
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ポストモダン評論もそう。あれだって、その当時から空回りしていた。既存の枠組みと違うところでハイテクとエンターテイメントが結びついて、しかもそれが世界を席巻していくのは哲学者ではなくゲーム・クリエーターだったわけだし。浅田彰はゲーム理論しかできなかった。ナッシュ均衡に拘泥する時点で、それ、クソゲーでしょうよ。ゲームの本質はいかにパターンにはまらないで(均衡させない)でゲームをマンネリ化させないかが重要だからだ。

中沢新一のエッセイ「ゲームフリークはバグと戯れる」(『雪片曲線論』所収)は一読の価値はあると思うけど、その文章にクリエーター側がインスパイアされることはまずなかっただろう。所詮、当時のナムコの声を哲学風にパラフレーズしたに過ぎないからだ。
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そんな時代を知っている私が、いま、モンストをやっている。ビックリマン、女神転生、ポケモン・・・かつてのブームのいろんな面影をそこに見ることができる。だが、これらとモンストが決定的にに違う点があって、それはモンストは一見RPGなのに世界観や物語すら存在しないことだ。

むしろ、モンストはこの欠落した物語性を回復させること自体がゲームなのではあるまいか。そのためにもっさいキャラをまともに進化させて友人たちと戯れて「物語る」のだ。つまり、他人や知人とのコミュニケーション自体がゲームの物語となる。その意味でモンストはパズドラとも根本的に違う。

それは東浩紀が指摘したように、ゲーム内のデータベース化された空虚な記号をかてにして、プレーヤー同士が共にこれらをモノ語りしながら失われた物語を再構築していく、そのような消費文化が・・・なぁんて書いたら、さっき批判したはずのポエム評論になりそうので、もうお開きにしましょう。賀正。

結論:二日前にゲットしたアリエスをさらに進化させました。
なんやかんやで600円かかりました(爆)。

ん

 

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おかあさんなるもの@夏休みアニメ特集。

 

父性なき『ドラゴンボール』ですら、母性は確かにありました。後期のブルマがそうです。ただしそこで描かれた母性は、通常のそれとは異なります。一般的に、母性というのは「子を守る」などの包容力ばかりが強調されますが、本来母性というのは、もっと野蛮できまぐれな側面を持っていると思います。

育児以前に「強い子が欲しい」というのも母性の一種です。あれだけいちゃついてたヤムチャをふって、ベジータに乗り換えるブルマに愕然としたのは私だけではないはず。ロマンチックは爆睡中です。このブルマの選択は、予定調和的な後期ドラゴンボールの世界において、不気味な特異点として君臨しています。

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唐突でストレートな野蛮さこそ母性であり、生き物の本質なのです。かつて鳥山明は女性を描くのが苦手であることを告白していましたが、実際に彼の作品には女性から共感を得るような女性キャラは登場しませんね。でも、ブルマがベジータに惹かれてしまう件に、共感とまでは言わないまでも理解できる女性は多いのではないでしょうか(鳥山明は、トランクスの伏線でそうしたにすぎないのですが)。

私が最近のアニメを観ない、いや観れないのは、こういう意味での「おかあさんなるもの」が描けていないからです。例えば、『エヴァンゲリオン』の母性の描き方は、最初から観念的で、そしてこれを物語の設定として活用するので、確かにうまく処理しているとは思うけれども、しかしずるいと思うんですよね。イミシンなだけで本当は何も考えてないんだろうな、というのが透けて見えちゃうんです。

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あと、巷にあふれる萌え系アニメやゲームなんかの母性は、もう末期的です。おっぱいが大きい=母性的という図式で描かれている。アホかと。こんなのは単なる男の妄想としての母でしかないわけです。だからロリコンが他方でマザコンなのは当前なんですね。いづれにせよ、それらはご都合主義的な妄想でしかないのだから。

かつて、大阪にお母さん喫茶なるものがオープンし、その後すぐに閉店したのは、おそらくスタッフを高年齢にしたからです。「マザコン=ロリコン」というオタクのキモい女性崇拝の本質が理解できていなかったんですね。

さ

母性をめぐる問題はジブリにも言えることで、ジブリの一連の作品には「母」がいませんね。例えば、シータは? 論外ですよね。基本的にジブリ作品には、愛でるべき可憐な少女か老婆しかでてこないわけです。

『神隠し』のように、女性ファンを取り込むために、ハクのような男性キャラに力を入れたりしますが、ジブリは女性の共感を呼ぶ女性キャラは出てこなくないですか? 近年のジブリの不調の本質は、そういうところにあると思うんですよね。

『魔女の宅急便』に登場するオソノさんは、確かに庶民的な「おかん」しているど、それはここで言う母性とは全く関係ないです。さっきも言ったように、母性とは理性的な包容力を突き抜けた何かです。そう、別れ際にメーテルが唐突にDAKARAをごくごく飲むように、母性とは場の空気なんか気にしない一種の生理現象なのです。

ちなみにナウシカは綾波っぽいよね。まるで血が通っていない人造人間みたいで(まあ、事実そうなんだけど)、なんかノイローゼっぽいわけです。人間がそういうの目指すと「ナウシカコンプレックス」になります。実際にそういう心理系の本がありますね。本書のコピーには「あなたの疲れの原因は『お母さん』かもしれない…」とあります。

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・・・などと考えていくと、ジブリが描いた唯一のリアルな母性は『もののけ姫』のサンではないだろうか、という結論にいたるわけです。

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すると、おまえが言いたいのは要するにツンデレのことなんだろ、と言われそうですが、それは違います。「ツンデレ」という言葉が生まれたのは、確か『ハルヒ』だったと思いますが、ああいう感じのキャラは80年代の『きまぐれオレンジロード』の鮎川まどかにルーツがあって、ハルヒのツンデレは、それの劣化したカリカルチュアでしかないわけです。

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今時のツンデレというのは、「デレ」というオチのために「ツン」がある。すなわち、ツン→デレなわけです。悪そうな人が実はいい人、みたいな。だけども、人はそんなに単純ではない。ツンとデレが常に共存している感じが鮎川まどかにはあったし、サンにもそういうところがある。こういうとらえどころのなさに本当の母性があると思うんです。

例えば、故郷の許嫁がくれた小刀でサンがアシタカを突き刺すシーンとか好きです。ヒロインが主人公を発作的に刺すアニメって他に無いですよねw(そこには小刀の込められた許嫁のブチギレた暴力性がサンに少なからず作用していると思いますが)。

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そして最後はやっぱりガンダムネタなのですが、ガンダムが描くことに成功した母性はエマ・シーンただ一人だけです。異論は認めない。私が『Z』以降のガンダムを観ないのはエマが出てこないからです。zのアーガマ内の人間模様は疑似家族っぽいところがありましたよね。主人公に対するエマは、確かにお母さんでした。彼女の死に際のシーンもね。

好きなモビルスーツはエマ中尉のmk2です。クワトロ・バジーナともできてた、よね? エマの代わりにシャアが死ねばよかったのに。あ、ちなみに左にいるやつは♂ですよ。以上。

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ソニー、PC部門からの事実上の撤退へ。

 

まあ、こんなこと、ならねこで書かなくてもいーんだけど、そりゃあ、こうなるわなあ、というのが率直な感想です。PC関係者なら誰もがそう思っていたことじゃないかしら。90年代半ばに、ソニーがパソコン作るって聞いたとき、私はとてもわくわくしたものです。シャープのX68000の意思はソニーが継ぐのかなあって本気で思っていたものだから、VAIOの初お披露目で「OSはマイクロソフトです。とっても薄いです」って言われたとき、ああ終わったな、もう私の知ってるソニーじゃないんだなあって。私にとってVAIOは最初から死んでいたw

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近年のヨドバシカメラとか、VAIOのコーナーってお通夜状態だったし、隣のAppleコーナーの模範解答を前にしてもなお、何もできなかった。否、やりたくてもできなかったんだろう。他社のOS入れた時点でゲームオーバーだったんだ。まあ手書き入力は良いと思ったけど。しかし、それはソニーならではものではないし。全体としてハードの作り込みも甘かったね。ここでいう「ハード」はプリント基板だけの話じゃない。

例えば、MacBook Airの11インチはカタログスペック上では重めなんです。でも実際にこれを手に持ったとき、すごくバランスがよい。「バランスがよい」っていうとすごく感覚的だけど「接合部の少ないアルミ製だからちゃんと握ってもベコベコしない」「重さがボディで均一」なところが、一枚の板を持ってる感じでとても気持ちいい。重く感じない。他のPCだと重さ以前に持ち方とか、いろいろ気をつかうところが多い。Appleはそういうところも「真のスペック」として作っている。(褒めすぎですw iPad Airは死ぬほど持ちにくいし)

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VAIOにはそういうこだわりがホントになかった。ほれほれ女子のためにピンク色を用意しましたよ、でも電源アダプタは真っ黒です…とかね。コレが女子の部屋に、でっかいゴキブリのように転がっているところが想像できないわけです。

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VAIO Pシリーズも持続的イノベーションを積み重ねていれば、完成度の高い製品に化けたと思う。「持続的イノベーション」は「大企業なら出来て当然の技術革新」というニュアンスを持ち、企業活動として自明なタスクを指すがゆえに、この言葉は否定的に使われる事が多いけれど、VAIOはこの「イロハ」すら出来ていなかったんじゃないか。

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80年代、ソニーといえばウォークマンだったけれど、よくよく考えれば、ウォークマンのモノ作りって結構テキトーで、毎年新モデルがスニーカーのように出て、その場しのぎ的なギミックでやりくりしていたなあ。VAIOもそのノリを継承してしまったんだろう。でも、今は金が余ってるバブルじゃないし、そもそもPCは長く使う家電だし。勘違いもはなはだしいっつーの。

しかし、ソニーはプレステというOSを持っているわけで、あれはリビングだけでなく、オフィスにあってもいいはず。デジカメやお風呂のOSがプレステOSでいけない理由があるだろうか。あのプラットフォームは、まだまだ可能性があると思うケド。。。下の記事で、スマホ事業に力を入れるってあるけど、だーかーらーOSは自社製じゃないと3年後同じ悪夢を見ますよ?

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ソニー、投資ファンドにパソコン事業売却へ
2014/2/5 2:14日本経済新聞 電子版

ソニーはパソコン事業を投資ファンドの日本産業パートナーズ(東京・千代田)に売却する方向で最終調整に入った。タブレット(多機能携帯端末)の急速な普及で、ソニーのパソコン事業は営業赤字に陥っている。スマートフォン(スマホ)を成長の柱に位置付ける戦略を鮮明にして、不振のエレクトロニクス事業を立て直す。

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1980 ( 2013 ) :
『ここは退屈迎えに来て』と『なんとなく、クリスタル』

 

amazonのレビューに、『ここは退屈迎えに来て』は平成版『なんとなく、クリスタル』である、という評がある。なるほど確かに、山内マリコ氏の『ここは退屈迎えに来て』は、1980年に田中康夫が著した『なんとなく、クリスタル』を連想させるものがある。『なんクリ』が東京の新興貴族大学生のリア充体験記だとすれば、『ここは退屈』はさえない平民階級がファスト風土という奈落で悶える獄中日記といえるかもしれない。実際、私もそう思ったのだが、しかし今日、改めて『なんクリ』読み直したらそうでもないかな、とも思った。『なんクリ』の主人公、モデル兼女子大生の由利のおばはんクサイのセレブ言動が、かえって「おまえ必死やん」という突っ込みをいれずにおけなかったからだ。まあ、それは作者の確信犯的文体でもあるんだからまーしゃあないとしても、由利の彼氏は確実にダメだ。彼のセリフや描写からしてどうもアホっぽい。作者の意図に反して、彼はイタい男だと思う。彼はミュージシャンで、ジャンルは流行のフュージョンで、学生なのに秋田にツアーで演奏していて…という設定でカッコよさを(作者が)PRするのだが、すでにその肩書き弁慶さ加減が可哀想な男だなあ、と哀れんでしまう。

1980年ぐらいの東京。物語の登場人物達はスペースインベーダーも沢田研二も知らない。貴族なので認識できない。うそつけ。おまえら知らんフリをすんなや、と私。実はスペースインベーダーに病的にはまっていて、アメ横のゲーセンでばれないようにスタジャンに変装して半日興じているんだろ。正直にいえ。やい彼氏、おまえも本当は風呂では「トーキーオっ!」てバカみたいに独りカラオケしてるはずだ。同棲して、それができなくなったストレスで他の相手とSEXしちゃうんだよ、ああバカだねえ。そういうのを抑圧して隠す。浮気は認めるけど、風呂で「TOKIO」歌ってることは極秘事項なのだ。東京はクリスタルでないといけないんだよねえ。まったく、おまえら必死やん。

ラストシーンにて。主人公の由利は街中でふと10年後を思う。30歳になってもシャネルの似合うモデルをやっていたいな。もちろん彼氏も音楽家として大成功して、ほんでもって二人幸せな夫婦になれたらいいな、と。いやー無理でしょうね。おまえみたいなイヤミな女、25なったらポイやで。芸能界なめんなよ。男の方もボンボンなだけでアホだし、そもそもフュージョンって、ただのピコピコシンセやろ。その後、食い扶持もとめてファミコンの音楽でもつくるんかなあ。なんとなく、暗雲たちこめてません?というように、『なんクリ』は世間で言われるほど、バブリーでノー天気な小説ではないです。ま、80年代以降の東京の沸騰と荒廃の両方を予見しているという意味で、重要な作品であることには変わりないですけどね。

そして、2013年の『ここは退屈』。こちらは群像劇ですが、その中の一人に、25歳を前にして芸能界を引退し、地方のスタバでバイトしてる女性が出てきます。ドイナカでのたうち回る彼女のコミカルな悲哀は、まさしく『なんクリ』の見たくない後日譚といえるのかもしれません。そういう意味では両者は対照的なのですが、しかし、注意すべきはタイトル『ここは退屈…』の「ここ」とは、地方のことを指しているのではない。だって、あこがれの東京もなんにも無かったのだから。この作品が3.11以後のものであることも見逃せない。震災で東京のもろさがフィジカル面とシステム面の両方で露呈してしまった。東京もまた「退屈」な場所なのです。実際、3.11を契機に実家に帰ってきた女性のエピソードもでてきます。田舎もだめ、東京もだめ、帰ってきたけどやっぱ無理。ん海外?アメリカとか?あの国いうほど自由の国ちゃうでー、田舎の人種差別きっついでー、茶髪のジャップなんて、you薄ら笑いやでー、という救いのなさ。ああ、この絶望に出口なんてないのだ。そう、「ここ」とは「出口がないということを知ってしまうことへの絶望」なのです。

そういえば、そんな映画がありました。『キングイズアライヴ』は砂漠のど真ん中で助けを待っているんですが、みんな気が狂って「リア王」を演じ始めるというヘンな映画です。でも私は『キューブ』よりこっちのほうが好きなんですね。だって『キューブ』は出口があることをみんな知っているわけです。それは希望です。とりあえずその出口を探してがんばれますね。まあ死んじゃうけど。『キングイズアライブ』は出口を探さない。そもそもないんだから。で、「リア王」やる(笑)。『ここは退屈』も田舎のファスト風土という砂漠に埋もれていくか、夢の防壁で自我を狂気な次元で維持するかの二者択一を迫られます。もうそれ自体が無間地獄なのですが。。。こういう物語は悲劇だか喜劇だかわかんないですね。だがそれがいい。私自身は第三の道があるんじゃないかと思いますけどねえ。でも、それを安易に描かなかったところがこの作品を傑作たらしめているんじゃないかな。